戦国時代を彩った数多くの戦国武将のなかでも、知名度で群を抜いているのが「甲斐の虎」といわれた武田信玄。

宿敵・越後の上杉謙信との「川中島の合戦」をはじめ、多くの戦で「常勝軍団」の名を天下にとどろかせた甲斐の名将です。


自らの死を三年間秘密にした武田信玄。実は三年とかからず大名たちに知れ渡っていた

信玄キュート♡「甲斐の虎」といわれ織田信長にも恐れられていた武田信玄の意外な苦手なものとは?

■有名な肖像画に疑問符

その信玄の容貌を伝える有名な肖像画が、高野山成慶院の武田信玄像です。安土桃山時代の巨匠・長谷川等伯の筆による作品で、1572(元亀3)年、京をめざした信玄が記念に描かせた画像といわれています。

本物の信玄はどんな顔?ダルマのような恰幅のよい有名な武田信玄...の画像はこちら >>


高野山成慶院の武田信玄像

ダルマのような恰幅のよい体型と坊主頭の風貌は、諸国の戦国武将から恐れられた武田騎馬軍団の総帥にふさわしく、見るからに威厳があります。ところが近年、この肖像画には疑問符がつけられています。

その根拠は、この肖像画に描かれた人物の頭髪。
肖像画の人物は少ない髪を後ろに回して髻をゆっているのですが、信玄は39歳で出家しているはず。つまり、この肖像画が信玄を絵が言ったものであれば、髻を結っていることから出家前の信玄像ということになります。

ところが、肖像画の人物はどう見ても39歳以下には見えず、もっと年上にみえます。また、当時の史料から判断すると、等伯と信玄が出会う機会がなかったといいます。

さらに、肖像画には武田家の家紋である「剣花菱」がなく、代わりに「丸に二匹両紋」が描かれています。この家紋は足利将軍家やその宴席である細川・今川・畠山・吉良家などの家紋であり、戦国武将が肖像画のような後世に残すものに、他家の家紋を描かせることはないはず。


このことから、近年この肖像画に描かれた人物は能登の守護大名・畠山義続でではないか、という説が有力になっています。仮にこの人物が義続であれば家紋の件も納得がいき、能登の守護大名であれば等伯との接点も考えられます。

■本物の信玄はどんな顔?

では、本物の信玄はどんな顔をしていたのでしょうか?

その答えになりそうなのが、成慶院と同様、高野山にある持妙院が所蔵している信玄像です。こちらの信玄像は折烏帽子をかぶり、直垂を着ており、成慶院の肖像画の人物よりずっと若く、30歳くらいにしか見ません。頬ひげはなく、口ひげも薄いです。直垂には剣花菱の紋も入り、説得力もあります。


本物の信玄はどんな顔?ダルマのような恰幅のよい有名な武田信玄像は別人説


高野山持妙院の武田信玄像

信玄は謙信と対で語られることが多く、容貌についても謙信の颯爽とした美男子のイメージに対して、威厳に満ちた堂々たる体躯のイメージが強い人物。

ところが、信玄の実像が伝えられているものとちがうとなると、もしかしたら謙信の実像すらも勘繰りたくなる方もいるのではないでしょうか。

参考:『武田信玄:芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』笹本 正治

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan