1573(天正元)年4月10日、戦国時代の武将・武田信玄(たけだしんげん)は53歳で亡くなりました。信玄が最期を迎えた地は信濃国伊那の駒場。
名将・信玄はその死の間際まで両国経営のことを考え、自分が死んだことが広まれば他の戦国大名らが領地に侵攻してくることを心配しました。

そこで自らの死に臨み、子の勝頼に「3年間、喪を秘せ」と遺言したとされています。

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自らの死を3年間隠した武田信玄(高野山持妙院蔵)

勝頼は信玄の遺言に従い、自分が当主としてふるまい、信玄は隠居扱いにしました。小田原城主・北条氏政が「信玄が死亡した」という噂を聞きつけ、勝頼のもとへ使者を送ってきたときでさえ、勝頼は信玄の弟・信廉を影武者に立て、ピンチを乗り切ったと伝えられています。

自らの死を三年間秘密にした武田信玄。実は三年とかからず大名たちに知れ渡っていた


父の死を隠した武田勝頼(高野山持明院蔵)

そして、その三年後、ようやく信玄の死を公表し、菩提寺の恵林寺で葬儀を行います。

通説ではこのように、信玄の死後も信玄の存在をちらつかせることで三年の間、他国からの攻撃を避けることができたと伝えられています。ところが信玄の死のニュースは、三年とかからずとっくに周辺の大名たちに知られていました。

北条氏政からの使者が訪れたとき、武田側では影武者を使ってまんまとだましたと思っていたが、帰国した使者は、信玄の死を主君・氏政に報告していたそうです。氏政がすぐに信玄の死を上杉謙信のもとに通報すると、その知らせを食事中に受けた謙信は箸を投げ捨て、「惜しい人を亡くしたものよ」とつぶやき涙を落したといいます。

当時、新進気鋭の戦国大名として台頭が激しかった織田信長も信玄の死を知っており、同年9月7日付けの毛利輝元などへの書状のなかで、信玄の死を喜んでいた様子が伝えられています。信長にとって目の上のタンコブのようなものだった難敵の死は、願ってもない好機だったことでしょう。徳川家康も信玄の死を聞いて哀悼の意を述べたといわれています。


結局、騙したつもりでいたのは武田側だけで、周囲の戦国大名は情報を入手していたというわけで、知っていながら騙されていたそぶりをしていた氏政、謙信、信長、家康などのほうが勝頼よりも一枚も二枚も上手だったようです。

それにしても、当時の戦国大名の諜報力には目を見張るものがあります。厳しい乱世の世、最新の政治情勢を収集することはお家の死活問題に繋がっていたのです。

参考

  • 磯貝正義 『定本武田信玄』
  • 笹本正治 『武田信玄:芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』

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