それに対して、後醍醐天皇に忠節をつくした楠木正成は、「忠臣」の代表として扱われました。
時代によって評価が変化した足利尊氏(浄土寺蔵)
実は、この尊氏と正成の対照的な評価の違いを生んだ背景には、複数の歴史書の影響があります。
1つは南朝の忠臣・北畠親房が著した『神皇正統記』。親房は南朝の正当性を主張し、尊氏については「さしたる大功もなくてかくや抽賞(多くの人の中から選んで賞すること)せられるべきとあやしみ申輩もありけりとぞ」と記し、後醍醐天皇が尊氏を従二位に叙し、参議院に任じたことを批判しています。
また建武政権樹立後の行動についても「高氏(尊氏)のぞむ所達せずして、謀反をおこすよし聞えし」と記し、はっきりと謀反であるとしています。
もう1つは水戸徳川家の徳川光圀が編纂した『大日本史』で、この書も後醍醐天皇の吉野朝廷(南朝)を正統とし、正成を南朝方の忠臣と記しています。
江戸時代に大衆に広く読まれた軍記物『太平記』では、南朝方の正成や新田義貞は悲劇の英雄として描かれているのに対し、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻して北朝を成り立てた人物として扱われています。
これらの歴史書や軍記物によって南朝の正当性が語られそれにより正成は忠臣となり、尊氏は逆臣となりました。その後も、歴史家・頼山陽が著した『日本外史』などでも南朝の正当性が述べられ、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
1863(文久三)年には伊予国松山藩の藩士・三輪田綱一郎らが足利家の菩提寺である京都・等持院に乱入し、足利尊氏・義詮・義満ら3将軍の木像の首を奪って三条河原に晒すという事件も起きています。綱一郎らは尊王攘夷派の浪士であり、三将軍を「逆族の首魁」とみなしたのです。
そして、明治時代になると、国定教科書「尋常小学日本歴史」の記述が南北朝併立であることが問題となり、政府は教科書の使用の禁止。その後の歴史教育では南朝を正当とし、「南朝」は「吉野の朝廷」と改められ、尊氏は「賊軍の首魁」と指導されるようになります。
こうして尊氏は、何世紀にもわたって「逆臣」の汚名を着せられ誤解され続けられました。ところが、戦後の歴史教育の変化に伴いようやく誤解も解け、逆臣から一気に英雄として扱われるようになりました。
そして昭和30年代には吉川英治の歴史小説『私本太平記』が出版され、尊氏が寛大で正直者の人間味あふれる人物として描かれるようになると、尊氏の人気がますます高まり、NHKの大河ドラマ「太平記」の主人公として登場するまでになりました。
参考
- 今谷明『現代語訳 神皇正統記』
- 兵藤裕己『太平記』
- 吉川英治『私本太平記全一冊合本版』
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