江戸時代半ば、オランダ語を介して西洋の医学を学ぶ蘭学が流行しました。その中でもよく知られているのが、杉田玄白(すぎたげんぱく)らによる西洋医学書の翻訳作業。


玄白らはオランダ語で描かれた解剖書を翻訳して『解体新書』を刊行し、西洋医学研究の先がけとなりました。人体の構造に即した知識が紹介され、「神経」「軟骨」「動脈」や「処女膜」など、今日の医学用語でもあるこの言葉たちが、この翻訳作業で生まれたのです。

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と、ここまではおそらく日本史の授業でも教わる内容です。

■オランダ語が苦手だった杉田玄白

ところが実際の杉田玄白、実はオランダ語が苦手で翻訳作業にはほとんど参加していませんでした。

オランダ語が苦手…。杉田玄白は「解体新書」翻訳作業の中心ではなかった?


杉田玄白像(Wikipediaより)

代わりに前野良沢(まえの りょうたく)という医学者が翻訳の中心となりましたが、当時は蘭学研究が始まったばかりで、良沢も充分な知識を持ち合わせていませんでした。

オランダ語が苦手…。杉田玄白は「解体新書」翻訳作業の中心ではなかった?


前野良沢

この時代、オランダ語に精通する人物は限られており、辞書も普及していなかったため、悪戦苦闘しながら翻訳作業は進められたといいます。

■不完全な部分を残したまま刊行された解体新書

そのうえ、学者肌の良沢が時間をかけて翻訳を勧めたかったのに対し、玄白は虚弱体質だったので、「死ぬ前に本を出したい」と出版に焦っていました。こうして、様々な想いが交錯する中、『解体新書』は不完全な部分を残したまま1774年に刊行されてしまいました。

例えば今も医学用語して伝わっている「十二指腸」。これは明らかな誤訳だそう。本来は臓器の名称ではなく、指の幅十二本分(約25cm)の長さの消化管という意味なのですが、いまだに医学用語として残されています。

このように一番最初に上梓された誤訳の多い『解体新書』について良沢は不満があったようですが、師匠のそんな思いを受けてか、後に弟子である大槻玄沢が改訂版を出版し、師の心残りを解消したようです。


ちなみに杉田玄白は『解体新書』刊行から40年以上生き続け、前野良沢より長生きをしたそうです。

あまり学校の日本史の授業では取り上げられない前野良沢ですが、本当はもっと語られてもよい人物のような気がします。

参考:幕末維新風雲伝

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