幕末に、稀代の美貌を持つ大人気歌舞伎役者がいました。8代目市川團十郎です。
彼は人気絶頂のさなか、32歳で自ら命を絶ちました。あまりにも突然であり、本人が何も語らずに亡くなったため、その死はいまだに謎に包まれています。

前回に引き続き、8代目市川團十郎の生い立ちや境遇を辿り、その謎を考察します・・・。

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謎に包まれた死。幕末の美男役者・八代目 市川團十郎はなぜ32歳で自殺したのか?その1

いまだ謎に包まれた死。幕末の美男役者・八代目 市川團十郎はなぜ32歳で自殺したのか?その2

謎に包まれた死。幕末の美男役者・八代目 市川團十郎はなぜ32歳で自殺したのか?その3

■神経質で曲がった事ができない性格

誰に対しても心優しく義理堅く、多くの人に好かれた8代目市川團十郎でしたが、神経質なほど倫理道徳を遵守し、筋の通らない事は絶対にできない潔癖症な一面もあったとか。

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「助六由縁江戸櫻」の花川戸助六

こんなエピソードがあります。

弘化元年、8代目團十郎が22歳で初めて助六をやる事になった時の事。敵役の髭の意休を演じる5代目松本幸四郎の頭に下駄を乗せて嘲笑する場面が、人としての倫理に背くためどうしてもできないというのです。

幸四郎本人が「役の中での事だからやってくれ」と頼みますが、「人の頭、ましてや尊敬する幸四郎の頭に下駄を乗せるなど、到底自分は許す事は出来ない」と誰が説得しても聞く耳を持たず、ついに幸四郎が折れて、その場面はカットになったのです。

こうと思った事には融通が利かず、1つ心にひっかかると深く悩み、夜も寝付けないというような性格だったようです。


■死にいたる経緯

こうした真っすぐすぎる性格や、前回までに紹介してきた生い立ちや境遇の複雑さが、彼が死にいたる経緯の根底にあったと考えられます。それらを踏まえた上で亡くなる前の彼の行動をできるかぎり追ってみましょう。

嘉永7年(1854)5月15日からの市村座五月狂言の後、関西に拠点を移していた父から名古屋公演に出てくれと泣き付かれてしまいます。義理堅い8代目團十郎は江戸の座元や贔屓筋に断りもなく勝手な契約はしたくなかったものの、しぶしぶ7月に名古屋の舞台をつとめる事になりました。

彼の嫌な予感は的中、名古屋の興行中に問題が発生。名古屋の舞台が終わったら次の江戸での舞台のためにすぐに帰るはずだったのに、膨大な借金を抱える父が勝手に8月は大坂で親子共演興行を行う契約をし、お金を受け取ってしまっていたのです。

その裏では、父の妾が糸を引いていたとか・・・。

【最終話に続く】

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