戦国時代、多くの武士たちが活躍する中で、女性が歴史の表舞台で活躍した例はあまり多くないように思われがちです。

しかし、大河ドラマ「おんな城主 直虎」のように女性が家督を継承し、一国一城の主として采配を揮った事例も数多く伝わっています。


そこで今回は戦国末期、陸奥国で活躍した女城主・清心尼(せいしんに)のエピソードを紹介したいと思います。

■10歳で政略結婚、子子子(ねねこ)の幸せな家庭生活

清心尼は天正十四1586年、陸奥国糠部郡(現:青森県八戸市根城)にある根城(ねじょう)城主・八戸直栄(はちのへ なおよし)と千代子(宗家の主君・南部信直の娘)との間に誕生しました。

俗名は子子子(ねねこ)。生年月日は不明ですが、もしかしたら子(ね)の月の子の日に生まれたからそう名づけられたのかも知れません(※天正十四年は戌年です)。仮にそうであれば、子の月は旧暦で11月(現代のおよそ12月)ですから、年の瀬ごろに生まれたことになります。

さて、八戸氏は陸奥国の戦国大名・南部氏の一族ですが、南部宗家との仲は必ずしも良好ではなく、宗家の支配下に取り込まれぬよう代々にわたって苦心していました。

御家の存続を図るために男子の誕生が望まれたものの、男子に恵まれないまま文禄四1595年に父・直栄が病没。そこで千代子は10歳の子子子に1歳年下の叔父・八戸直政(なおまさ)を婿に取り、八戸氏の家督を継がせます。

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子子子と直政の婚礼(イメージ)。

典型的な政略結婚ではありましたが、子子子と直政の間には一男二女(久松-ひさまつ、福-さち、愛-めご)が生まれ、二十年近く幸せな家庭生活を過ごしていたのですが……。

■夫と長男に先立たれ、出家して家督を継承

慶長十九1614年6月、徳川家康の命によって越後国高田城(現:新潟県上越市)の普請に当たっていた直政が、任務を終えた帰途に病没してしまいました。享年28歳。


不幸なことは重なるもので、まだ幼い長男・久松も父の後を追うように夭折。これで八戸氏には男子がいなくなってしまいました。

このままでは御家断絶……どうしたものかと悩んでいると、南部宗家の主君・南部利直(なんぶ としなお。信直の嫡男)から再婚の縁談が持ちかけられました。

「子子子殿はまだお若いゆえ、直政殿に生涯操を立てるより、御家の存続を図るべきと考えるが……いかがであろう。毛馬内(けまない)殿のご子息を婿養子に迎えられては……」

毛馬内氏は八戸氏と同じく南部氏の一族に当たり、その中でも南部宗家と親しく、いわば息がかかった勢力でした。

いわば「女手一つで家を切り盛りするのは難儀であろうから」というお為ごかしに、体よく八戸氏を南部宗家に取り込もうとしているのは明白です。

「せっかくのお心遣い、誠に忝(かたじけな)くは存じますが、古来『貞女は二夫に見(まみ)えず』と申します。かくなればこの身は出家して、跡取りが決まるまでの間、私が八戸の家を支えて参ります」

貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(一)


出家・剃髪した子子子改め清心尼(イメージ)。

かくして子子子は剃髪して清心尼と称し、八戸氏の第二十一代当主に就いたのでした。

思惑が外れた利直は清心尼の家督継承をあっさり認めますが、その内心では

「……ふん。女一人に何が出来る。
せいぜいやってみればよかろう。ほどなく泣きついて来よう……」

と高を括っていたのかもしれません。ついでに一応ダメ元で毛馬内氏の子息を婿ではなく養子にとってはどうかと勧めたが、清心尼はこちらの縁談も「八戸の家中が落ち着きましたら、いずれまた改めて」などとやんわり辞退。

さて、八戸氏の家督を継いだ清心尼にさっそく試練が訪れるのですが、その話はまた次回に。

【続く】

参考文献:

  • 巌手県教育会上閉伊郡部会 編『上閉伊郡志』巌手県教育会上閉伊郡部会、大正二1913年
  • 青森県史編纂中世部会『青森県史 資料編 中世1 南部氏関係資料』青森県、平成十六2004年3月31日
  • 八戸市史編纂委員会 編『新編八戸市史 通史編2(近世)』八戸市、2013年3月

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