大河ドラマ「おんな城主 直虎」でも知られたように、戦国時代は男性だけでなく女性も時として家督を継ぎ、一族の舵取りをしなければならない場面が少なくありませんでした。

貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(一)

今回はそんな一人である、美濃国岩村城(現:岐阜県恵那市岩村町)の女城主・艶(つや)のエピソードを紹介したいと思います。


■鎌倉以来の名門・遠山景任に嫁ぐ

艶は尾張国(現:愛知県西部)の戦国武将・織田信定(おだ のぶさだ)の娘として誕生。後に天下布武を号令する織田信長(のぶなが)の叔母に当たります。人からは「おつやの方」などと呼ばれたそうです。

生年については不明ですが、信定が天文七1538年に亡くなっていること、艶は兄弟姉妹の中でも末っ子に近いことから最晩年の子、天文元1532年~五1536年ごろの生まれではないかと考えられます。

※その場合、甥の信長(天文三1534年生まれ)とほぼ同年代となります。

艶は兄・信秀の死後に織田の家督を継承した甥・信長の命により、東美濃(現:岐阜県南東部)の岩村城主・遠山景任(とおやま かげとう)に嫁ぎました。

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ごくざっくりとした美濃周辺の勢力図。強豪たちに囲まれている遠山氏。

当時、遠山氏は西美濃の斎藤(さいとう)氏と、東は甲信地方の武田(たけだ)氏との板挟みとなっており、北上(斎藤氏を攻略、美濃の制圧)のパートナーを求める信長と、美濃における勢力基盤を確立し、武田氏の影響下(※)から脱したい景任との利害関係が一致。

(※)景任は父・遠山景前(かげまえ)の没後、分家の反対を抑えて家督を継承する際、武田晴信(はるのぶ。後の信玄)の後ろ盾を得ており、頭が上がらない状態でした。

典型的な政略結婚で、時期は景任が家督を継いだ直後のまだ不安定な永禄年間(1558~1570年)初期、艶は20代半ばごろと推測されます。


遠山家は鎌倉時代から続く名門ですが、数百年の歳月を経た戦国乱世にあってはそんな権威など既に形骸化しています。まして分家の乱立を制御できず、政情の不安定な東美濃へ嫁いでいく艶は、さぞかし不安だったことでしょう。

■景任の死による平和の終焉

さて、武田氏に臣従しながら艶との結婚によって信長とも誼(よしみ)を通じた景任は、織田・武田(甲尾同盟)の仲立ちとして、両雄のパワーバランスを保つ役割を果たすと共に、織田・武田というネームバリューを後ろ盾に、東美濃をどうにか治めていました。

艶は岩村城に嫁いだ「岩村御前(いわむらごぜん)」、あるいは景任の官位(修理亮-しゅりのすけ)から「修理婦人(しゅりふじん)」などと呼ばれていたそうです。ちなみに結婚生活については特に記録がないため、幸せであったことを願うばかりです。

しかし、元亀三1572年8月14日に景任が病死すると、信長は東美濃の支配権を奪うべく異母兄・織田信広(のぶひろ)と家臣の河尻秀隆(かわじり ひでたか)の軍勢を派遣、岩村城を占領します。

景任には子供がいなかったため、信長の五男・御坊丸(ごぼうまる。後の織田勝長)を艶の養子に送り込み、まんまと遠山家を乗っ取ってしまいました。

しかし、御坊丸はまだ幼少であった事から、艶が後見人として城主を務めるよう信長に命じられます。

織田信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」がたどった数奇な運命【上】


女城主となった艶。

かくして岩村の女城主として東美濃を治めることとなった艶ですが、実質的には信長の傀儡(かいらい。操り人形)であり、また、東美濃が織田の勢力下に入ったとなれば、武田信玄も黙ってはいないでしょう。


ここに甲尾同盟は終わりを告げ、岩村城は織田・武田戦争の最前線として激闘が繰り広げられるのでした。

【中編へ続く】

参考文献:
加藤護一 編『恵那郡史』恵那郡教育会、大正十五1926年
川口素生『戦国軍師人名辞典』学研M文庫、平成二十一2009年
平山優『新編 武田二十四勝正伝』武田神社、平成二十一2009年

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