では、その後、徳川将軍家(宗家)はどうなったのでしょうか。
15代将軍・徳川慶喜の跡を継いだのは、徳川家達(とくがわいえさと)です。
徳川宗家第16代・徳川家達
家達は慶喜の実の子ではなく、分家である御三卿のうち田安家の出身。本名は田安亀之助。家達が徳川宗家を相続したのは大政奉還の翌年1868(慶応4)年閏4月のことで、このときは家達はわずか四歳でした。

幼少期の家達
徳川宗家の後継に関して、慶喜は紀州藩主・徳川茂承を推したのですが、静寛院宮(和宮)らが亀之助を強く推したため、彼で決定しました。同年5月には駿河府中(駿府)藩70万石を下賜され、1869(明治2)年の版籍奉還によって静岡藩知事に任命されました。将軍職を失った徳川宗家は静岡藩の藩主として、存続していきました。
1871(明治4)年7月、廃藩置県が断行され、華族の身分を保証された家達は東京へ移住。6年後にはイギリスへ留学し、1882(明治15)年に帰国した後は公爵の身分を授けられ、1890(明治23)年10月には貴族院議員となっています。
家達はその後、1903(明治36)年から1933(昭和8)年まで、30年間貴族院議長を務め、1914(大正3)年には首相への就任要請もありました。
ちょうどこのときにシーメンス事件(艦船購入をめぐる日本海軍の汚職事件)によって山本権兵衛内閣が倒れた時期で、徳川宗家の後継者ではあるが、政治色が薄いという理由から家達が選ばれたわけです。

徳川家達(1917年)
ところが、汚職事件という政治の混乱期に首相の座について何か問題があったときに家達のみならず徳川宗家の名誉に傷がつくことをおそれた家達は、「自分は首相の器ではないから」と要請を固辞。
以後、国際連盟協会総裁、ワシントン会議の全権委員、日本赤十字社社長、第12回オリンピック東京大会組織委員会など、様々な要職を歴任し、1940(昭和15)年6月、76歳で亡くなりました。「16代様」とも称された家達の人生は波乱に満ちたものでした。
画像出典:Wikipedia
参考:樋口 雄彦『第十六代徳川家達――その後の徳川家と近代日本』(祥伝社 2012)
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