1841年、長州藩(現在の山口県)で生まれた伊藤博文(いとうひろぶみ)。内閣制度を作り、初代内閣総理大臣として、学校の教科書で習った人も多いでしょう。


立派な髭とその堂々たる風格は、まさに日本で最初の内閣総理大臣として相応しい姿。それゆえ少し近づきがたい印象もあるかもしれません。ところがこの伊藤博文、相当のおっちょこちょいだったと知ったら少しは親近感がわくかもしれません。

知ったかぶり?おっちょこちょい?初代内閣総理大臣・伊藤博文の...の画像はこちら >>


若い頃は失敗談も多かった伊藤博文

おっちょこちょいといえばどことなく可愛らしいイメージがありますが、若い頃には高杉晋作の手下としてイギリス公使館を焼き討ちにしたり、まったくの勘違いで人を切り殺したりしています。このことからも、何か相当ヤバイ人物の気配を感じます。

■どことなく上から目線の演説?

1871年、明治政府が欧米に使節団を派遣します。この使節団の目的は幕末に幕府が結んだ「不平等条約を解消する」ことでした。それは、日本が国際社会での地位を確立するための我が国の悲願ともいうべきものでした。

後の時代に「岩倉使節団」と呼ばれたその一行は、岩倉具視を特命全権大使とし、副使には木戸孝允や大久保利通、山口尚芳、そして伊藤博文などが名を連ねました。伊藤は英語が堪能だったため、メンバーを先導する事務局長のような役割を果たしました。

海外どころか西洋式の生活自体になれていない者たちばかりが集まった使節団。この派遣のために洋装を買い求めた者たちも少なくありませんでした。


そこで伊藤は、団員たちを集めて、西洋文化についての講義を披露しました。本来、このような講義はありがたいはずなのですが、伊藤の「どことなく上から目線」の演説はよほど鼻についたのでしょう。「伊藤のクソ演説」と馬鹿にされたそうです。

■国の代表として認められず?

また、船の上で書記官が女性とトラブルを起こしました。すると、伊藤は「欧米ではこうするのだ」と、船の上で模擬裁判を開きました。それ自体は決して悪くなかったのですが、自らも女性問題を多く起こしていた伊藤が率先して裁判官となって裁きを始めたため、大いに不評を買ったこともあったようです。得意な英語を活かして活躍できるのがよほどうれしかったのでしょう。浮かれすぎた伊藤は明らかに周囲から浮いていました。

まあ、それでも使節団の目的を果たせさえすればよかったんです。ところが、伊藤は大失敗をしてしまいました。なんと、天皇からの委任状をもらってこなかったため、国の代表として認められず、交渉すらさせてもらえなかったのです。

現在と異なり、海外渡航には相当な日数がかかります。
トホホな顔で虚しく帰国しようとする伊藤と大久保。残りの者たちでなんとか条約改正の交渉をしますが、アメリカの態度は厳しく、かないませんでした。

木戸は後に日記にこう嘆いています。

「伊藤は外国で条約を結ぶことが国益になるというが、その利益はほとんどない。相手国が欲しいものはことごとく与え、私たちが欲するものは一つもえられていない。これまでの苦心と悔しい思い出、ただ涙するばかりだ」と。

■憲法の正本を官邸に置き忘れ

1889年2月11日、日本で初めての憲法となる大日本帝国憲法が発布されました。この日、皇居にて憲法発布の式典が行われました。憲法の制定まで相当な苦労を重ねた伊藤自身にとっては、まさに晴れの舞台でしたが、なんとここでも信じられないことが起こります。

当日、憔悴しきった表情で現れた伊藤に、憲法起草者のひとり、金子堅太郎が「憲法は?」と尋ねたところ、なんと前日に渡されていた紫の袱紗に包まれていた憲法の正本を官邸に置き忘れてしまっていたのです!

最も忘れてはならないものを忘れてきた伊藤の失敗に、側近たちも唖然としたのはゆうまでもありません。

このような知識のひけらかしや、うっかりミスで周囲をあきれさせた伊藤博文でしたが、明治時代の近代化にかけたエネルギーは半端ないもので、忙しく働いた伊藤は、生涯布団の上でゆっくり眠ることはほぼなかったと伝えられています。

参考

  • 『伊藤博文の青年時代―欧米体験から何を学んだか』(2011 祥伝社)
  • 『文明史の中の明治憲法』(2003 講談社)
  • 『木戸孝允日記 全3冊 復刻版』(2015 日本史籍協会編)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ