行幸といえば「行啓・御行・御幸」などさまざまな呼び名がありますが、要するに天皇陛下が皇居を離れて各地へお出ましになることです。

それは京都御所から春日大社など一日だけのこともあれば、幕末明治期の京都から江戸までなど大旅行のこともあり、特別大がかりな行幸には「伊勢行幸」「東京行幸」などと土地名を足して呼ばれることもあります。
特に明治天皇は明治5年以降6回にわたって全国巡幸を行いました。

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『寛永三年二条城行幸』寛永4(1627)頃:国立国会図書館蔵

実は私たちの身の回りには、この行幸により地名が変わったり新しい名を与えられたりと、様々に影響していることが多くあるのです。今回はその一部をご紹介します。

■幻の「東京城」。皇居になっても、東京は「都」じゃない?

行幸の影響が一番大きいのはやはり明治天皇の東京行幸。それまで一度も江戸にお出ましにならなかった天皇陛下が、各地を巡幸しながら江戸まで向かうのですから、天地のひっくり返る大騒ぎだったのも想像に難くありません。

明治と改元されたのは明治天皇が大坂に行幸した後。そして明治元年に江戸は東京に改称されました。天皇陛下は江戸ではなく、東京になってから足を踏み入れたのです。そのとき、江戸城は「東京城」と改名されましたが、わずか1年で「皇城」と改名されます。それは一度明治天皇が京都にお帰りになったためで、二度目の行幸のときにいよいよ東京城が仮住まいとなったため、「皇城」となり、そしてすぐ「宮城」と名前を変えました。

天皇陛下が来られるって!天皇のお出まし「行幸」は、地名さえ変える影響力大の一大イベント


『御行幸次第』 寛永年間

明治政府は京都などからの反発をおそれ混乱を避けるため、都を東京に移すことに明確に宣言しませんでした。
そのことが尾を引いて、実は今でも首都の場所は法律で明文化されていないのです。

ですので、たびたび首都を関西に移すという議題が持ち上がるのは、今でも「天皇陛下は行幸で東京に立ち寄っているだけ」という風潮が残っているためではないかと思われます。

■大涌谷は「地獄」だった

箱根の観光名所、大涌谷。かつてここは硫黄臭の立ち込めるガスが噴出し、その様相から「地獄谷」または「大地獄」と呼ばれていました。しかし、1873年(明治6年)8月5日の行幸の折、天皇陛下がこられる場所に「地獄」は相応しくないということで、「大涌谷」と呼称を変えました。

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明治元年(1868年)武州六郷船渡図、月岡芳年・作:Wikipediaより

東京の聖蹟桜ケ丘 聖跡ではなく聖蹟。聖蹟とは、天皇陛下が行幸した場所、という意味です。天皇陛下が行ったところは全部聖蹟といえることになりますが、駅名にもなっている「聖蹟桜ヶ丘」が最も有名かもしれません。

かつて明治天皇は、多摩丘陵でのウサギ狩りや多摩川での鮎漁をお楽しみになりこの地域に何度も行幸したそうです。これを記念して、1930年(昭和5年)に「多摩聖蹟記念館」が建設され、1937年(昭和12年)に「関戸駅」が「聖蹟桜ヶ丘駅」に改称されたというわけです。いつしか桜も植えられ、桜の名所としても有名になりました。

昭和天皇が命名した「相武台」 神奈川県座間市相武台の地名は、「陸軍士官学校」が発祥となっています。


陸軍士官学校は1874(明治7)年に開校した、陸軍将校の養成機関です。開校年の12月、同校卒業式に昭和天皇が訪れることになり、国鉄横浜線「原町田駅」(現JR横浜線「町田駅」)から同校までの道路改修工事が行われ、この道路が「行幸道路」と呼ばれるようになりました。

また行幸の折、昭和天皇はこの地を「相武台」と命名し現在まで続いています。陸軍士官学校は、1945(昭和20)年に長野県佐久市に疎開し、そのまま終戦を迎え閉校となりましたが、その5年後に米陸軍が設置され、いまも知られる「キャンプ座間」と呼ばれるようになります。

ちなみに演習場の視察でついた地名は他にもあり、千葉県の習志野が知られています。明治6年(1873)、大和田原(現・千葉県船橋市習志野台から高根台周辺)で明治天皇御覧の下で陸軍による演習が行われ、後にその地は「習志野原」と命名され、正式に陸軍の演習場となりました。

聞き間違いからついた名前「夏見」 千葉県船橋市の夏見に伝わる伝説です。

夏見は平安時代に伊勢神宮に寄進された荘園の一部で、夏見御厨(なつみみくりや)と呼ばれました。伊勢から遠い千葉の地に、荘園があったことが驚きですね。

この地には古い伝承が二つあり、一つは「日本武尊が東夷征伐のおり、この地で神鏡の輝く船を見たのが夏だった」というものと、「景行天皇(日本武尊の父)が行幸した時、菜摘みをしていた里人に地名を尋ねたが都の言葉が分からず、いま菜を摘んでいます、と答えた」というものです。

景行天皇は日本書紀に登場する古代の天皇ですので、その信憑性のほどはわかりませんが、伊勢神宮の創建が景行天皇の父親である垂仁天皇の時代ですので、伊勢神宮の荘園となる地までこられたとしても、おかしくないのかもしれません。

下町からの美幸町へ 御幸町はもともとは「下町」という名前でしたが、大正天皇が大正元年(1912年)に所沢飛行場での陸軍大演習の閲兵のため行幸した記念に、大正4年(1915年)に改称されました。


下町からはだいぶ印象が変わりますね。ちなみに他にも、「寿町・宮本町・有楽町」などが誕生しています。

いかがでしたか?全国各地に御幸町や行幸通りなどありますので、ご自分の地域も一度見直してみてはいかがでしょうか。

参考文献:『江戸が東京になった日―明治二年の東京遷都』 (講談社選書メチエ)、『封印された 東京の謎』
小川裕夫、『地名の社会学』今尾恵介

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