江戸時代には信仰登山が盛んになり、富士山、御嶽山、高尾山などへの巡礼は引きも切らず行われましたが、現在のようにスポーツや楽しみとして行う習慣はなく、整備されたいくつもの歩きやすいルートがあったわけではありません。
そんな時代に、日本で3000メートルを超える21座のうちの一つ、3180メートルの槍ヶ岳に登攀した播隆上人。現在でもその急峻さで登山愛好家の間では一度は必ず上りたい、憧れの山となっています。
■どんな生い立ち?
播隆は天明6年(1786年)、越中河内村(現富山県富山市)に生まれました。19才で出家し京都・大阪で修行します。しかし徳川幕府の檀家制度により、寺はなにもせずとも資金が集まることとなり、堕落の風潮がはびこってしまいます。檀家制度とは各々の信仰に関わらず、住民はその地域の寺に属し、布施をして財政を支えなければならないシステム。
播隆は仏教界に失望して出奔し、その後の人生をほぼ苦行僧として過ごすことになります。彼は岐阜から長野にかけて庶民に対して説法を説きながら行脚し、信者を増やしていきました。同じ教典を何度も繰り返し説き、庶民にもわかりやすいと評判にだったようです。
普段は山里に隠り木の実や草を食べ、念仏三昧の日々を送っていたそうです。
■いよいよ槍ヶ岳へ
槍ヶ岳は奥深いため、麓から確認することはできません。播隆が初めて槍ヶ岳を望見したのは、文政6年(1823)6月のこと。
播隆は槍ヶ岳を見て、この山こそ心願成就するのに相応しく、あまねく人々を導く場所として祀りたいと強く思います。
そして1826年(文政9)、槍ヶ岳に初めて挑戦します。彼が通ったルートは、高度をあげるまでは命の危険を感じるほどの難ルートはありません。しかし山頂近くになると風は強く、夏でも夜は零度近くまで冷え込みます。そして肩と言われる山頂直下から、頂上に至る槍のように突き出た岩の塊が難関なのです。
しかしこのときは最初から頂を踏むつもりはなく、下調べのためでした。土地に明るい鷹匠の中田又重郎という者を連れており、彼はその後よき理解者でよき案内人となります。

その後1828年10月に初登攀。そのさい御来迎に輝く阿弥陀如来が現れます。これはブロッケン現象といって、自分の影が雲に映り後光が射す現象なのですが、播隆と又重郎は感涙にむせび泣き、ここに厨子を設置し、阿弥陀如来・観世音菩薩・文殊菩薩の三尊像を安置しました。
■祟りだ!となじられて
その後1833年から1835年にかけ三回登りますが、すべて順調ではありませんでした。数々の凍傷で足の指を失います。
また播隆は浄土宗でしたが、檀家制度によりこの一帯を治める禅宗の僧侶達の妨害にもあいました。おりしも天保の大飢饉が起き、これに乗じて「播隆が山を荒らした罪で飢饉がおきた」と流布されて、それを信じた村人達から石を投げられるなどの苦しみも味わいました。
また、播隆の悲願は後続の参詣者の安全のために槍ヶ岳の岩壁に鉄の鎖を懸けることで、熱心な信者達により当時貴重だったはさみ・包丁・鎌などの鉄が寄進され鎖は完成しましたが、凶作により松本藩に禁止されたことがありました。
飛騨地方の村々にはなぜか「鉄を持って山を越えると祟りが起きる」という迷信があり、鉄を集めまわる播隆一党を快く思わない風潮もあっての配慮でした。
そのため実現には4年を待たなければならず、玄向寺で病気療養中の播隆に代わり、又重郎ら信者達が鎖をかけました。天保11年(1840)のことでした。播隆は同じ年、病気が悪化し、ことを見届け終わったかのように中山道太田宿にて往生しました。55歳のことでした。
筆者も槍ヶ岳へ登りましたが、クライマー経験者でなければ、鎖がなければ危険で進めなかったと思います。また現在も播隆らが身を休め念仏を唱えた「播隆窟」が登山ルートに現存し、一休みする場所となっています。


■数々の伝説
弘法大師などの有名人にはその霊力で人を助ける逸話が多く残りますが、播隆も同じで、
・信者を連れて「播隆窟」で休み、一時外出したところ熊が入り込んでいた。その熊を諭して穴から出て行ってもらった
・猿が集まって説法を聞いて涙し、念仏踊りを踊った
・誰も知らないはずなのに、播隆が手を合わせた家に死人があった
・錆で困っていた古井戸に名号を書いた石を投げ入れると清らかになった
などなどたくさんの伝説が残されています。
播隆は今から約160年前に槍ヶ岳を開山しました。一般的には「日本近代登山の父」と呼ばれている英国人ウェストンのほうが知られているかもしれませんが、彼より65年も前に、己の名声ではなくひたすら衆生救済のために生きた播隆。いまJR松本駅前には上人のブロンズ像か設置されています。
参考文献:『槍ヶ岳開山 播隆』穂苅三寿雄・穂苅貞雄
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