織田信長
そもそも日本の家屋は平屋が多く、高い建物は必要とされていなかった節もあります。平安時代の貴族の住まいである寝殿造りも平屋ですし、武士の時代に入っても武家造・書院造作りと呼ばれる屋敷は平屋でした。鎌倉幕府など政治を司る場所も、京都御所のように平屋の複合建築物でした。
戦国時代になっても、武田信玄の「躑躅ケ崎館」のように天守をもたない館に住まう武将もいました。むしろ寺社仏閣のほうが、巨大な建物を擁していたと言えるでしょう。
天守登場以前に、天守に似た構造の建物がなかったわけではありません。外敵からの専守防衛のため遠見をする必要がある場所、主に国境や岬などには櫓(やぐら)があり、物見・司令塔・攻城戦の役割を持っていました。

物見櫓 (吉野ヶ里遺跡):Wikipediaより
その櫓と御殿が一体化していったものが城ということができます。岐阜県の飛騨高山城がその例で、天守と御殿が複合化した建物といわれています。

皇居の富士見櫓
ちなみに安土城の登場までは4重櫓が最高で、5重になってから「天守」と呼ばれるようになったとされています。
■豪華絢爛!七重の城「安土城」
安土城は現存していません。『信長公記』によると、七重の城で、天正四年1576年正月に工事が開始され、4月1日に完成しています。石垣は現在に直すと高さ11m。総黒漆塗りで御殿は部屋も柱も悉く金で欄干があり、狩野永徳に絵を描かせたとあり、相当な豪華絢爛であったもよう。

安土城図:Wikipediaより
本丸は使者などと対面する政治の場として利用し、詰丸の御殿は住居として活用。安土城への麓の道は直線に伸び天守に登るような視覚効果もあり、また身分に応じて山腹から山麓にかけ家臣の屋敷を配置し、石垣で天守と隔絶することによって、ピラミッドの頂点に君臨するというイメージを植え付ける効果も担ったといいます。
徳川の世になると、3代目の家光による武家諸法度で高層の天守建築は原則禁止となり、5重以上の天守を持つのは有力大名に限られたとされています。
また戦国時代が終わると天守に住む必要はなくなり、天守とは別の御殿で暮らす大名がほとんどだったといいます。そのため、江戸城も明暦3年(1657年)の「振り袖火事」のあとは、天守を建て直しませんでした。
こうやって振り返ると、天主の君臨する歴史は意外と短かったのかもしれませんね。
参考文献:
- 『城の科学 個性豊かな天守の「超」技術』講談社
- 『麒麟がくる~明智光秀とその時代』NHK出版
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