前回、明治の毒婦と呼ばれた高橋お伝が斬首されるまでを紹介しました。今回は、斬首後のお伝について見ていきましょう。


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明治の毒婦と呼ばれて…死んでもなお人生や遺体を辱められた薄幸の女性「高橋お伝」【前編】

明治12年(1879年)、後藤吉蔵を殺した罪で斬首刑を言い渡された高橋お伝。29歳だったお伝の美貌は、まだまだ際立っていたことでしょう。

そのため、お伝が辿ってきた薄幸な人生よりも、その美貌に目を向けられた結果、「毒婦」との呼び名がついてしまったのです。お伝の斬首後、お伝のエピソードが脚色されて数々の媒体で描かれるようになりました。

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新聞や小説、歌舞伎でお伝の脚色されたエピソードが毒婦ブームを呼び起こします。物語の中で、お伝は「夫を毒殺して男たちを手玉に取った稀代の毒婦」となりました。


明治時代の劇作家・鈴木泉三郎(すずき せんざぶろう)が描いたお伝を題材にした戯曲には、「心の内に悪がねむっていてすこしも外へ出ぬように見せたし」と、お伝を真の毒婦のように表現しています。

■お伝は人生だけでなく遺体までも辱められることに

お伝の人生は乱暴に扱われるようになりましたが、お伝の遺体さえ興味の対象となりました。斬首されたお伝の遺体から、なんと性器を切り取ったという話があるのです。

その実情は定かではありませんが、お伝の性器はホルマリン漬けになり保存されていると囁かれています。実際に東京大学医学部でお伝の性器を見たという話が、昭和30年ごろにあったとか。

どうして性器を保存していたのかといえば、「学術的な意義があるというよりも、多情の女だったから」という理由だとある軍医が語っているそうです。


つまり、娼婦をして男を殺すような淫乱な女性の性器だったから、興味を惹かれたということなのでしょう。なんとも、バカバカしい理由だと感じます。

明治の毒婦と呼ばれて…死んでもなお人生や遺体を辱められた薄幸の女性「高橋お伝」【後編】

また、斬首されたお伝の頭部もドクロになって保存されているという話があります。こちらは、浅草のある漢方医の所有となったそうです。

お伝が斬首されて10年後、漢方医の元に旅の僧侶があらわれました。その僧侶は、「お伝の情夫だった小川市太郎」と名乗ります。
市太郎はお伝のドクロを撫でて涙を流したとか。

お伝は斬首されるまえに市太郎の名を叫び暴れたとされているので、このエピソードが本当なら、少しはお伝の気持ちも晴れたと願いたいですね。

参考書籍:「高橋お伝」、「怪談五色 破戒」、「実録怪談 幕末の怖い話」

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