一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】
一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】
時は幕末、欧米列強を相手に攘夷(馬関戦争)を決行したものの敗れてしまった長州藩は、高杉晋作(たかすぎ しんさく)の屁理屈とハッタリによって戦争責任=賠償金の支払いをすべて幕府に押しつけ、奪われた彦島の無償返還に成功。
しかし、賠償金を支払わされた幕府も黙ってはおらず、禁門の変(元治元1864年7月19日、政治的巻き返しを図った過激派によるクーデター未遂事件)によって「朝敵」とされていた長州藩を征伐するべく、西日本各地の雄藩を動員して着々と準備を進めます。
二度の敗戦でもうボロボロな長州藩は、何としてでも戦争を回避するべく、岩国領主の吉川経幹(きっかわ つねまさ)に交渉を命じるのでした。
■「主君を差し出せ」だと?追い詰められた経幹、ついにキレる
さて、経幹は幕府との仲介役を頼もうと薩摩藩の高崎兵部五六(たかさき ひょうぶごろく)と福岡藩の喜多岡勇平(きたおか ゆうへい)に根回しをします。
「我が長州藩は誠に不本意ながら朝敵となってしまったが、元来尊皇の志篤き我ら一同、錦旗に弓ひくつもりなど毛頭なきゆえ、どうかお取り成し願いたく……」
薩摩藩も福岡藩も、本心では戦などしたくないため「長州が謝罪すれば、赦す=戦争を回避するよう幕府に取り成す」旨を申し出ます。
「ありがたい。それでは、その謝罪について……」
交渉した結果、長州藩の謝罪条件は以下の通りとなりました。
一、禁門の変を主導した三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹
一、同じく四参謀(佐久間佐兵衛、宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎)の斬首
一、「七卿落ち」以来長州で匿っていた五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放
七卿落ちを警護した吉川監物(経幹、赤丸の人物)。彼らを見捨てるのは忍びないが……
長州藩は粛々と三家老と四参謀の処分を執行。しかし11月16日、処刑された七名の首実検が行われた時、幕府の大目付である永井尚志(ながい なおむね)が言い出します。
「これだけでは足りぬ。藩主・毛利敬親(もうり たかちか)・定広(さだひろ)父子を面縛して引き渡し、毛利家の本拠である萩(はぎ)城を明け渡すべし!」
面縛(めんばく)とは後ろ手に縛り上げて顔を晒す=罪人として扱う処遇であり、武士としてはこれ以上ない屈辱的な酷遇と言えます。
ひたすら低姿勢を貫き続けて経幹ですが、これを聞いて遂にキレてしまいました。
■危機一髪!西郷隆盛の仲裁で事なきを得る
「……お断りします」
「何だと?その方らは朝敵の分際で……」
「黙らっしゃい。
「その方、正気か!」
「……ちょうど先刻の馬関戦争で欧米列強から会得した戦術と、多数鹵獲した最新兵器を試したかったところじゃ。英仏蘭米を相手に善戦し、謀略の限りを駆使して彦島を奪還した我らが武略、とくとご覧に入れようぞ!」
晋作譲り?のハッタリをかました経幹ですが、たとえ本当に攻め滅ぼされようと、ここで主君を売り渡してしまったら、何のために関ケ原以来、徳川にリベンジを期して耐え忍んで来たのか分かりません。
経幹の覚悟と気魄が伝わったのか、首実検に同席していた薩摩藩の大島吉之助(後の西郷隆盛)が仲裁に乗り出します。

「まぁまぁ……無用な血を流すのは本意にごわはんで……」
という訳で、大目付の体面を保つよう、長州藩には以下の条件を追加しました。
一、藩主父子による謝罪文の提出
一、新拠点・山口城の破却(全部とは言っていない)
かくして謝罪は受け入れられ、第一次長州征伐は戦闘に至ることなく12月27日(1865年1月24日)に終結。波瀾万丈な元治元年はこうして暮れていったのでした。
ところで、これまでの交渉に際して経幹は抵抗しない意思を示すため、寸鉄一つ帯びずに敵陣の真っただ中に赴いており、その覚悟と豪胆を称えた人々が
「神か仏か 岩国様(領主=吉川経幹)は 扇子一つで 槍の中」と歌った都都逸(どどいつ。七七七五の歌)が現代に伝わっています。
■幕府軍が四方向から攻めて来た!四境戦争(第二次長州征伐)では芸州口を死守
明けて元治二1865年は昨年の社会不安を受けて4月7日に慶応と改元されましたが、一度「長州を征伐する」と言っておきながら実現できず、長州の謝罪を受けたとは言えメンツを潰された幕府は、このまま黙っている訳には行きませんでした。
一方で長州藩も「武備恭順(ぶびきょうじゅん。従いはするが、武力は備える)」をモットーに再軍備を進め、幕府からの藩主引き渡し要請をはぐらかし続けると同時に、周辺諸藩に対して工作活動を展開(いわゆる薩長同盟もその一環)。
「もはや交渉の余地なし」と決断した幕府は、慶応二1866年に長州へ宣戦布告。
東西南北から包囲され、約10万人以上の大軍が攻め込んできたため、長州藩では「四境戦争」と呼んだそうですが、幕府軍を迎え撃つ長州藩は約3~4千人と、25倍以上の兵力差に絶望しか感じられません。

幕府軍を相手に大暴れした奇兵隊。Wikipediaより。
しかし、世の中こういう状況であるほど興奮してしまう変態は一定数いるもので、例の高杉晋作などは、奇兵隊を率いて大暴れ。卑しくも代々毛利家に仕えてきた譜代の我らが負けてなるものか、と経幹も兵を率いて家老・宍戸備前守親基(ししど びぜんのかみちかもと)と共に芸州口を固めます。
6月13日、幕府軍は紀伊藩(現:和歌山県)をはじめ、彦根藩(現:滋賀県)と高田藩、与板藩(現:新潟県)など3万の軍勢が芸州口に迫り、翌14日早朝から本格的な戦闘に突入。
長州軍は寡兵(かへい。少人数)ながら当時最新鋭だったフランス製ミニエー銃(※)を装備しており、旧式のマスケット銃などを用いていた幕府軍を圧倒。その先鋒を文字通り血祭りに上げ、戦場となった小瀬川が真っ赤に染まったとの事です。
(※)銃身にライフル(螺旋状の溝)を刻んだことで、従来よりも大口径かつ高速高精度の射撃を可能にし、人体への殺傷力が格段に向上しました。
この戦闘で壊滅させられた彦根藩と高田藩は戦線から離脱(後方の警戒を担当していた与板藩は既に退却)、紀州藩のみが踏みとどまって戦闘を継続。
「よし、このまま粘れば……!」

伝・坂本龍馬作「長州征伐地図」。赤丸で囲んだ部分が経幹たちが守備した小瀬川。
アッと言う間に決着がつくと思われた長州征伐ですが、戦闘が長引く内に各藩は戦意を喪失。元から出兵を拒否する藩も少なからず、7月20日には第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)が亡くなったこともあり、一藩また一藩と撤退していった結果、9月2日には停戦合意によりすべての戦闘が終了しました。
「やった……勝ったぞ!」
「ついに守り抜いたんじゃ!」
四境戦争の勝利によって長州藩がその命脈をつないだ一方、徳川将軍家はその実力が「張子の虎」に過ぎなかったことが知れ渡ってしまい、やがて迎える滅亡を決定的なものとするのでした。
【続く】
※参考文献:
児玉幸多・北島正元 監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫、1994年
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