しかし、日本史の教科書では上記のことだけ書かれているので、4人がその後どうなったのかの後日談があまり知られていません。
今回は4人がローマ法王に会う目的を果たした後、何をしていたのかに焦点を当ててご紹介します。
天正遣欧少年使節/Wikipediaより
■帰国後は豊臣秀吉と会った!
4人は天正10年(1582)に日本を発った後、天正18年(1590)に日本へ戻ってきます。日本に帰国したら、キリスト教のことや海外のことを話そうと考えて4人は意気揚々としていたことでしょう。
しかし、8年後の日本はキリスト教を徐々に国外に追い出そうとしている最中でした。
4人がまだ航海中の天正14年(1587)、豊臣秀吉によって伴天連(バテレン)追放令が出されます。

豊臣秀吉/Wikipediaより
これにより布教活動を行う宣教師の追放やキリシタン大名による強制的な改宗が禁止になりました。
しかし信仰活動や自主的な改宗は自由だったこともあり、宣教師たちは公然の活動を避けつつ、各地で潜伏しながら活動をしていました。
そんな状況下の中で帰国した4人は翌年、秀吉に拝謁します。4人は秀吉の前で西洋楽器による演奏を披露し、秀吉を大いに喜ばせました。
そして、4人を気に入った秀吉は家臣になるよう勧めますが、司祭になることを決めていたので断ってしまいます。
その後4人は神学校で勉学に励み、文禄2年(1593)にはイエズス会に入信しました。
ここまでは4人とも同じ道を歩みますが、その後別々の道を歩むことになります。
■唯一棄教の道を歩んだ千々石ミゲル
千々石ミゲルは遣欧の段階でキリスト教に対して不信感を抱いていました。それは理想郷と言われていたヨーロッパでキリスト教徒が奴隷を従えている場面を見てしまったことが発端かと思われます。
帰国後ミゲルは心が晴れないまま3人と勉学を続けますが、日に日に熱意を失っていき、次第にキリスト教と距離を置くようになります。
そして慶長6年(1601)にイエズス会を脱会。その後は従兄弟の大村喜前に「千々石清左衛門」の名で仕えます。しかし、キリスト教を棄てても元遣欧少年使節だったためか喜前と仲たがいとなりました。
また、同じく従兄弟でキリシタン大名だった有馬晴信の遺臣から裏切り者として命を狙われたことで、ミゲルは伊木力の地でひっそりと暮らしました。

有馬晴信/Wikipediaより
■司祭となるも志半ばで終わりを迎えた伊東マンショ
天正遣欧少年使節でミゲルと同じ正使だった伊東マンショは、ミゲルが脱会後も原マルティノと中浦ジュリアンと共に神学を勉強し続けます。そして慶長13年(1608)には、晴れて司祭の身となりました。

伊東マンショ/Wikipediaより
その後は細川忠興が治める豊前国小倉で活動をしています。しかし、江戸幕府が禁教の流れとなっていくと、忠興は慶長16年(1611)にマンショを追放しました。
マンショは長崎に拠点を移し活動していましたが、翌年に病死しました。

細川忠興/Wikipediaより
■禁教の流れに翻弄された原マルティノと中浦ジュリアン
司祭となりマンショは小倉で活動する中、原マルティノはラテン語が堪能だったので西洋書の翻訳や出版を布教活動と二足の草鞋で行っていました。また、中浦ジュリアンは博多で活動をしていました。
しかし、慶長19年(1614)に江戸幕府が禁教令を発布し、本格的にキリスト教弾圧を始めるとマルティノはマカオへ追放されます。
マカオの地でも出版活動をし続けながら、マルティノは寛永6年(1629)に亡くなりました。
一方、ジュリアンは多くのキリスト教徒が追放されていく中で、国内に潜伏しながら布教活動をしていました。そして、潜伏して20年が経とうしていた寛永9年(1632)にジュリアンは捕まってしまいます。
ジュリアンは棄教を迫るよう何度も拷問を受けますが棄教することはなく、翌年には穴吊るしの刑に処され、命を落としました。
■最後に
帰国後は4人とも時代の波に流されてしまったような印象を受けました。帰国したら本来の目的であるキリスト教の布教は禁止と言われたら、誰だって絶望とショックを受けるかと思います。
そして4人とも違った人生を歩んでいたのは意外で、全員仲良く同じ場所で活動していたわけではなかったようですね。
もう少し早く帰国できていれば、4人の運命は変わっていたのかもしれませんね。
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