満洲馬賊(まんしゅうばぞく)と言えば、大軍閥の張作霖(ちょう さくりん)をはじめ多くの荒くれ者たちが馬を駆って暴れ回ったイメージですが、そんな連中を束ねた親分の中に、一人の日本人女性がいた事はあまり知られていません。

そこで今回は、満洲馬賊の女親分・山本菊子(やまもと きくこ)のエピソードを紹介したいと思います。


■7歳の時に売り飛ばされて、大陸へ

山本菊子は明治十七1884年、熊本県天草で生まれました。家は貧しかったため、7歳となった明治二十四1891年ごろ、李氏朝鮮の京城(現:ソウル)にある料理屋へ、口減らしに売られたそうです。

「ごめんよ……あっちではいいおべべ着て、美味いもんたらふく食えるからな……」

当時、料理屋と言えば聞こえはいいですが、中には売春宿まがいのところも少なからず営業しており、要するに菊子は娼婦の見習いに出されたようでした。

「おっ父ぅ……おっ母ぁ……」

身売りされた少女の待遇なんて大抵どこでも同じようなもので、菊子もまた、蹴られ殴られいじめられ、泣く泣く奉公しながら成長していった事でしょう。

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「からゆきさん」と呼ばれながら、異国の地で糊口をしのいだ菊子たち(イメージ)。

やがて一端の娼婦として客をとるようになれば「からゆきさん(※外国在勤の日本人娼婦)」と陰口を叩かれ、処世術に疎かったのか一箇所に留まることができず、満洲地方やシベリア各地を放浪しながら糊口をしのいでいたそうです。

■シベリアでバーの女将になり、馬賊・孫花亭と出逢う

そんな荒んだ20代を送った菊子は、30歳も過ぎた大正五1916年ごろからブラゴヴェシチェンスクにバー「オーロラ宮殿」を開業。アムール河を挟んでシベリアと満洲の境界を往来する人々を相手に商売を始めました。

一説には、菊子が関東軍(日本軍)の諜報員として雇われていたとも言われていますが、酒場には様々な人が集まるので、情報収集にはもってこいの環境と言えます。

お客がたくさん来ればもちろんいいし、来なくても経営資金は日本軍が出してくれるから倒産の心配はなく、むしろ衆目を避けたい人からとっておきの情報を聞き出せるチャンスもあり、菊子の商売は順調でした。

(関東軍のお偉いサンに、コネ作っておいてよかった……まぁ、売り上げはピンハネされるけど、その分は「副業(むしろ本業?)」でカバーすればいいし)

そうして多くの客と「副業」に励む菊子の店に、ある男性がやって来ました。彼の名は孫花亭(そん かてい)。
間島(ジェンダオ。現:吉林省延辺朝鮮族自治州)を縄張りにしていた馬賊の頭領で、かの大軍閥・張作霖と義兄弟の盃を交わしています。

決死の覚悟で恋人を救出!満洲馬賊の女親分「満洲お菊」こと山本菊子の生涯【上】


満洲各地で暴れ回った孫花亭の一味(イメージ)。

張作霖の名を知らぬ満洲馬賊はモグリ、と言われるくらい強力なネームバリューを活かして急成長を遂げていた孫は、いわば馬賊界のホープでした。

「あら……」

英雄の気質を湛える孫に惹かれた菊子は彼と懇ろになり、いつしか「副業」にも身が入らなくなってしまったとか。

「……出来ればこのまま水商売から足を洗って、この人とカタギになれたらいいな……」

7歳で売り飛ばされて以来ずっと夢に見ていた、貧しくてもみんなが一緒に幸せな家庭生活。もしかしたら、それが実現できるかも……菊子がそう思い始めた矢先の事でした。

【続く】

※参考資料
「歴史街道 2007年6月号 満州と満鉄の真実」PHP研究所、2007年
祖田浩一 監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1998年
渡辺龍策『馬賊 日中戦争史の側面』中公新書、1964年

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