現在国宝のひとつとして伝わる金印「漢委奴国王印」。学校の歴史教科書にも必ず写真入りで出てくるので、殆どの方は一度は目にしたことがあるかと思います。
ただ、金印の発見の経緯について、細かくご存知の方はそんなにいないのでは?
漢委奴国王印(Wikipediaより)
この金印、実は江戸時代の天明年間に甚兵衛という地主によって水田の耕作中に偶然発見されたといわれています。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、その後、儒学者であった亀井南冥によって『後漢書』に記述のある金印だと鑑定されたそうです。
ところが近年、この金印が亀井南冥によって偽造されたものだったのではないかとされる説が注目されています。
まず、この金印が本物であるとする根拠は、文字が彫られた面の長さ(一辺約2.3cm)が、漢王朝の一寸と合致すること、また戦後、中国から同じ蛇形のつまみを持つ金印が発見されたこと、そして「漢委奴国王印」にそっくりな字体の金印が出土していることなどの三点があげられます。
その一方で、この金印のはっきりした出土場所が不明なこと、また、発見者の甚兵衛が実在していたことを示す当時の記録がないことなど、当時の発見状況があいまいなことにあります。
ただ、これに関して『黒田家家譜』という記録によれば、1809年(文化6年)に甚兵衛屋敷から火災が発生し、その責任のために甚兵衛も志賀島から追い出された旨が書かれているので、火災を契機に当時の記録から甚兵衛のことが抹消された可能性もあります。
ただ、甚兵衛が元々実在していなかったのならば、大火事に乗じて記録を抹消したとすることもできるわけです。さらに、「漢委奴国王印」は、同じ蛇紐(だちゅう)の印でも前時代に作られたとされるものに比べて造りが稚拙であり、また漢代の尺に関する資料は漢文さえ理解していれば誰でもアクセスできたことから、これらの資料を元に捏造されたと考えることもできるわけです。
では、なぜわざわざ手間をかけて金印が偽造される必要があったのでしょうか。金印が偽造されたものだとする立場の研究者は、亀井南冥が自身のネームバリューをあげ、甘棠館(かんとうかん)の開校を図ろうとしたことが目的だったとしています。
果たして金印は偽造だったのか、それとも本物だったのか。実際はどうなのか。
2020年8月3日 追記:
一方で考古学の世界でも金印を様々な角度から分析するという作業が2010年からすすめられ、印面に彫られている文字が後漢の初めに特徴的に見られる文字と同じ形態であるということ、そして印のサイズが後漢時代のものと一致するということ、さらに金の純度や金属組成、ツマミの形、紐孔(ひもあな)の底の凹みも、江戸時代には知りえない事実であるということが石川 日出志氏らの研究によって明らかになりました。
追記ここまで
参考
- 三浦 佑之『金印偽造事件』(2006 幻冬舎)
- 河村敬一 『亀井南冥小伝』(2013 花乱社)
- 早舩 正夫『儒学者亀井南冥―ここが偉かった』(2013 花乱社)
- 石川 日出志「金印と弥生時代研究-問題提起にかえて-」『古代学研究所紀要』23号 2015
- 石川 日出志「「漢委奴國王」金印と漢代尺・金属組成の問題」『考古学集刊』第11号 2015 」
- 石川 日出志「「漢委奴國王」金印の考古学」『駒澤大学大学院史学論集』48号 2018
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