歴史は常に不変ではない……研究が進んで定説が改められ、新説にとって代わられることは少なくありません。

最近では鎌倉幕府の成立年がその好例とされ、かつて学校で「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせで教えられた従来の建久三1192年から、「いい箱(1185)……」とする文治元1185年に変えられつつあるようです。


しかし、その根拠にはいささか疑問が残るものであり、とかく奇を衒(てら)って新儀を巧み出そうとする言説には注意が必要です。

そこで今回は、鎌倉幕府の成立年に関する諸説を紹介したいと思います。

■どうしていい国(1192年)?鎌倉幕府の成立年に関する諸説を紹介

まず、鎌倉幕府の成立年について、建久三1192年の定説を含めた諸説を、簡単な理由つきで時間順に並べてみましょう。

  • 治承四1180年……挙兵(謀叛)した頼朝公が鎌倉に入り、勢力基盤を固める
  • 寿永二1183年……朝廷より頼朝公の「謀叛」が許され、東国の支配権を公認される
  • 文治元1185年……平家が滅亡、朝廷より全国の支配権(地頭の設置)を公認される
  • 建久元1190年……頼朝公が右近衛大将(常任武官の最高位)に任じられる
  • 建久三1192年……頼朝公が征夷大将軍に任じられ、名実ともに「武家の棟梁」となる
  • 承久三1221年……承久の乱で後鳥羽上皇に勝利、朝廷権力も掌握する
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挙兵したばかり(治承四1180年)の頼朝公。後世の視点ゆえ立派に描かれているが、この時点では朝廷に対する「謀叛人」に過ぎない。歌川国芳「石橋山合戦」江戸時代

こうして見ると、まだ「謀叛人」の状態である治承四1180年説は、後世から見た結果オーライ(荒唐無稽)な言説に過ぎないことが分かります。

併せて承久三1221年説は、上皇とは言え朝廷との対立によって権力を掌握・強化していることから、これをもって(朝廷の承認を前提とする)幕府の成立とするのは無理があるでしょう。

さて、時代を戻して頼朝公の謀叛が許されて東国の支配者となった寿永二1183年、全国の支配者となった文治元1185年の両説はまだ説得力を感じられますが、支配体制の拡充を以て幕府とするなら、その体制が形骸化(実質的に破綻)した時点で幕府の滅亡としなくてはなりません。

(※鎌倉幕府や江戸幕府は、滅亡の間際まで支配体制が比較的機能していたものの、室町幕府については応仁の乱以降すっかり形骸化、戦国時代へとなだれ込んで行きました)

■カギは武家の棟梁≒征夷大将軍

そして残るは、建久元1190年説と建久三1192年説。常設武官の最高位である右近衛大将であれば、武家の棟梁に相応しいと思われなくもありません(そもそも幕府とは近衛大将の唐名=別称だから、という事で、その叙任を幕府成立の根拠としています)。

しかし、江戸幕府の徳川家康は左近衛大将に叙任されているものの、室町幕府の足利尊氏は近衛大将に叙任されたことがなく、ここでも幕府の定義が破綻してしまいます。

【検証】やっぱりいい国(1192年)鎌倉幕府…その成立年に関する諸説を検証してみた


頼朝公と足利尊氏、そして徳川家康の三人に共通する武官の最高位は征夷大将軍であって、それまでいくら政権体制が充実していても、武家の棟梁として名実ともに「幕府を開いた」と称しうるのは、やはり征夷大将軍の叙任と見なすのが妥当でしょう。


※なお、幕府という名称は江戸時代以降に用いられており、それぞれ開いた当事者たちが「幕府を開く」と言ったことはありません。あくまで後世の者が「武家の棟梁による全国規模の支配体制」を便宜上そう呼称しているだけです。

■まとめ

以上のように、幕府の成立は(1)支配体制の充実と、(2)朝廷による承認≒征夷大将軍の叙任という両条件を満たし、名実ともに「武家の棟梁」となることが前提となります。

よって鎌倉幕府の場合は、既に全国の支配体制を整えていた頼朝公が征夷大将軍に叙任された建久三1192年をもって成立とする定説が妥当でしょう。

日本の統治権力は、あくまでも朝廷(皇室)の権威によって裏づけられる……建国以来、連綿と受け継がれた日本人の知恵に基づいて、先人たちの事績を学んでいきたいものです。

※参考文献:
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年
河内祥輔『頼朝の時代―1180年内乱史』平凡社選書、1990年
野口実『武家の棟梁の条件―中世武士を見なおす』中公新書、1994年

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