今回は藤原氏が生んだ盗賊、保輔が行った悪行の数々を暴いてみたいと思います。
藤原保輔のモデルとされる袴垂(右)/Wikipediaより
■れっきとした貴族の藤原保輔
保輔の父は藤原致忠(ふじわらの-むねただ)で従四位下の官位を叙任されていました。もちろん、保輔も正五位下の官位を叙任されており、貴族としての一面も持っていました。
また兄には武芸に優れ、道長四天王の1人として数えられた藤原保昌(ふじわらの-やすまさ)がいます。
保昌は冒頭で記載した説話集で袴垂に衣服を狙われますが、結局奪われることなく逆に衣服を与えたら、袴垂が逃げ出してしまったという2人に関係する説話を持っています。

藤原保昌/Wikipediaより
■保輔、悪の道へ
家柄にも恵まれていた保輔でしたが、寛和元年(985)から徐々に悪の道へ足を踏み入れていきます。その第一歩として、この年に左大臣・源雅信の邸宅で行われた宴会の帰りに藤原秀孝の顔を傷つける事件を兄である藤原斉明(ふじわらの-ときあきら)と起こます。
その後も、斉明を逮捕した検非違使・源忠良を射殺し、同じく検非違使の平維時を殺害する計画を企てるなどして、罪を重ねていきました。
しかし永延2年(988)、保輔が藤原景斉の屋敷に強盗へ入ったことを保輔と共に強盗を行った手下が白状したことで事態が一変することになります。
■悪行の果てには…
郎党により、先述した犯行を踏まえて保輔は15回も犯行に及んだことが判明したので、朝廷は「逮捕した者には恩賞を与える宣旨」を出し、本格的な保輔逮捕に乗り出します。
しかし、なかなか見つけることができずにいたので、保輔を誘き出すために父の致忠を監禁しました。
保輔はこの事態に危機を感じたので、花園寺(はなぞのでら)で出家します。
逃げることができない状態となった保輔は最後の抵抗として、刀を自らの腹に刺して腸を引きずり出して自殺を図ります。しかしすぐには死ねず、翌日獄中で保輔は息絶えました。
保輔のそのような死に方は日本最古の切腹の事例となっています。
■最後に
平安貴族のイメージはお淑やかで争いを好まない印象を強く持っていたので、藤原保輔のような貴族から盗賊に堕ちていった人物がいたことで平安貴族のイメージが覆ります。
当時は権力争いが盛んにおこなわれていたので、そのような勝った負けたの負の部分があったからこそ保輔のような人物ができてしまったと考えることもできそうです。
参考:関幸彦『武士の原像 都大路の暗殺者たち』
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