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伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【1/4】
戦国時代、陸奥国西山(現:福島県桑折町)城主の伊達晴宗(だて はるむね)の長女として天文十1541年に生まれた阿南姫(おなみひめ)。
母・久保姫(くぼひめ)譲りの美貌を受け継いだ彼女は、須賀川(現:福島県須賀川市)城主の二階堂盛義(にかいどう もりよし)に嫁いで長男・平四郎(へいしろう)を授かります。
しかし永禄八1565年、盛義が黒川(現:福島県会津若松市)城主の蘆名盛氏(あしな もりうじ)に降伏したため、和睦≒臣従の証として、まだ5歳の幼い平四郎を泣く泣く盛氏の養子≒人質に出したのでした。
■人質から大出世!平四郎が主君・蘆名家の跡継ぎに
蘆名への臣従を余儀なくされた盛義ですが、そんな中でも阿南姫は30歳となった元亀元1570年に次男・二階堂行親(ゆきちか)を授かったことで、ひとまず気を取り直しました。
※その後も三男・二階堂行久(ゆきひさ)、四男の二階堂行栄(ゆきひで)、そして末娘(後の岩城御前)を授かりますが、生まれた順番については諸説あります。
そんな中、月日の流れた天正二1574年6月5日・盛氏の嫡男・蘆名盛興(もりおき)が若くして亡くなったため、一応ながら養子の身分であった平四郎が14歳で蘆名の家督を継承。元服して第18代当主・蘆名盛隆(もりたか)と称したのです。
人質の身分から一転、大名となった平四郎あらため蘆名盛隆(イメージ)。
人質の身分から、思わぬ息子の大出世ですが、何より嬉しかったのはとりあえず処刑されるリスクからの解放。
「良かった、本当に良かった……!」
「父として、我が子を主君と盛り立ててお仕え出来るとは……誠に平四郎ほどの孝行者はそうもおるまい!」
蘆名の家督を継承した平四郎あらため盛隆は、養父・盛氏から受け継いだ勢力基盤を存分に活かして領内外に存在感を示すと共に、実父の盛義を引き立てることで、すっかり衰退していた生家の再興に努めました。
すっかり立派になった長男・盛隆、そしてすくすくと成長している次男・行親。英明な兄弟二人が助け合えば、これで蘆名・二階堂の両家も末永く安泰……そう思っていた阿南姫と盛義でしたが……。
■相次ぐ不幸……出家した阿南姫が女城主に
「あなた、しっかりして下さいまし!いくら行親が利発とは申せ、家督を継ぐには、まだあまりにも早すぎますれば……!」
天正九1581年8月26日、夫の二階堂盛義がまだ30代という若さで急死(※)してしまい、家督はまだ12歳だった次男・行親が継承します。
(※前年、田村氏との御代田合戦に勝利するも負傷、その時の怪我が原因とも言われています)
阿南姫は夫の喪に服するため、出家して大乗院(だいじょういん)と名乗りますが、不幸は往々にして続くもので、翌天正十1582年には恃みの行親までもが父の後を追ってしまいました。

夫と息子を喪い、悲しみにくれる阿南姫(イメージ)。
「夫に続いて、そなたまで……っ!」
二階堂家に残っていた男児は三男・二階堂行久(ゆきひさ。生没年不詳)と、父と入れ替わるように生まれた四男・二階堂行栄(ゆきひで。天正九1581年~没年不詳)ですが、いずれも病弱だったのか、幼いことを差し引いても家督を継がせられる状態ではなかったようです。
「……かくなる上は、私が二階堂の家を継ぐよりありませんっ!」
大乗院は重臣の須田美濃守盛秀(すだ みののかみ もりひで)や箭部義政(やべ よしまさ)らの補佐を受けながら、須賀川城主として二階堂家を切り盛りすることになるのですが、気丈に努めていた矢先、今度は長男の蘆名盛隆が、家臣によって斬殺されたとの凶報に接します。
「……っ!」
聞くところによれば、下手人は盛隆が寵愛していた大庭三左衛門(おおば さんざゑもん)という美少年で、痴情のもつれから犯行に及んだとのことです。

三左衛門に斬られた蘆名盛隆(イメージ)。
時は天正十二1584年10月6日、つい先月(9月4日)に嫡男・蘆名亀王丸(かめおうまる)が生まれ、大乗院も「初孫が出来た」と喜んだばかりなのに……。
わずか生後1ヶ月で蘆名家の第19代目を継承した亀王丸ですが、天正十四1586年11月21日、疱瘡にかかり儚くなってしまいました。
「いったい何の因果で、こう不幸ばかりが続くのでしょうか……!」
喪の明ける暇がない大乗院でしたが、悲しみにくれる暇もなく蘆名家の後継者争いに巻き込まれていくのでした。
【続く】
※参考文献:
芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年
垣内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館、2017年
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