それを受け、阪神甲子園球場と阪神タイガースは、高野連に加盟する野球部の3年生全部員を対象に「甲子園の土」キーホルダーを送ることを発表。
SNSでは「粋やなあ」、「あれって『甲子園に出た』ってのが大きな価値を産んでるわけで「甲子園の土」自体に価値を見出さない人も実際にいる」など、賛否両論があるようです。
しかしながら、素晴らしい企画であることには間違いないでしょう。
ちなみに、昨年も甲子園球場95周年ということで、甲子園の土のキーホルダーが作成されています。

昨年のキーホルダーに書かれている数字は「95」、今回球児たちにプレゼントされるものは「102」。その意味は、昨年は甲子園球場95周年だから「95」、今年は今夏の全国高校野球選手権大会が第「102」回だからです。
■そもそも、甲子園の土ってどこの土なの?

甲子園のホームページを見ると、
黒土の産地
岡山県日本原、三重県鈴鹿市、鹿児島県鹿屋、大分県大野郡三重町、鳥取県大山 などの土をブレンドしている。(毎年決まっているわけではない。)
砂の産地の変遷
甲子園浜及び香櫨園浜社有地 ~ 瀬戸内海産の砂浜 ~ 中国福建省 ~ 京都府城陽
黒土と砂の割合
春は雨が多いため砂を多めに、夏はボール(白球)を見易くするために黒土を多くブレンドしている。
となっています。砂の方は、水はけの良さが選ばれた決め手だったそう。甲子園球場のグラウンド整備を一手に担っているのは、阪急阪神系列の企業・阪神園芸という会社です。
■土を持ち帰るのは誰が始めた?
惜しくも試合に負けてしまった球児たちが、涙しながらグラウンドの土を集め持ち帰るその光景は、甲子園の風物詩となっています。
甲子園の土を初めて持ち帰った人物は、川上哲治(1937年、夏の23回大会)という説がありますが、本人は「最初に持ち帰ったのは自分ではない」と話しているので、始まりはもっと前にさかのぼるようです。
近頃では、春の大会では常連校ほど砂を持ち帰らない傾向にあるのだとか。
甲子園から出ていく土の量は、年間なんと約2トンにも上るそうですよ。

■沖縄の首里高校のエピソード
第二次世界大戦終戦後、沖縄はアメリカの統治下にありました。
その夏の大会で、春夏を通じて初めて沖縄から首里高校が出場。1回戦で敗戦し、首里高のメンバーは甲子園の土をビニールに入れて持ち帰りました。
ところがアメリカの法律により、甲子園の土は外国の土とみなされ、植物検疫法によって帰郷後処分されてしまいます。
これは沖縄が日本ではないことを強く認識させられる出来事でした。
それを知った日本航空の客室乗務員有志らが、球場周辺にあった海岸の石を拾い首里に寄贈。
同校庭に、今も甲子園初出場を記念した「友愛の碑」というモニュメントとして飾られています。
そして、このエピソードがメディアで広まり、沖縄返還運動を加速させる一端となったともいわれているのです。

■持ち帰った土はその後どうなっている?
それでは持ち帰った後、球児たちはその砂をどうしているのでしょうか?
メルカリで出品されているのを何度か見かけることがありますが・・・。

作新学院(栃木)OBの江川卓さんは、「わたしも45年ほど前持ち帰った『甲子園の土』が、今でも宝物です。土を見るたびに『厳しい練習を乗り越えてよかった』と思えるのです」と話しています。
横浜高校(神奈川)OBの上地雄輔さんは、甲子園の土はどこかに行ってしまったそう。
「来年は来る気ないのかっていう、上級生からの“圧”で1、2年生は持って帰りにくい。3年で負けた時も(甲子園の土を集めながら)負けたことに浸りたいが協会の人に『急いで、急いで!』とか言われてあんまりもらえない」と実体験をテレビで語っていました。

おみやげとして周りのみんなに配ったり、自分の高校のグランドに撒いたり、テレビの上に飾って大切にしているなど、人それぞれのよう。
高校球児の聖地である甲子園の土はやはり特別。一生の大切な思い出の品なのですね。
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