賤ケ岳で活躍し、新時代を切り拓いた若武者たち。「賤ケ岳合戦図屏風」より。
時は天正十一1583年4月、秀吉が天下人への道を歩む上で絶対に負けられなかった決戦を制したのは、秀吉子飼いの若武者たちの活躍あってこそ……中でも目覚ましい戦功を立てた七名を「賤ケ岳の七本槍」と呼んでこれを激賞。
後に豊臣政権の新時代を担っていくことになるのですが、賤ケ岳の戦いで活躍したのは彼らだけではありませんでした。
そこで今回は、そんな「賤ケ岳の七本槍」から洩れてしまった名将たちについて紹介していきたいと思います。
■名誉じゃなかった?「賤ケ岳の七本槍」プロフィール
まず「賤ケ岳の七本槍って誰?」という方もいるかも知れないので、以下にメンバーを紹介します(50音順。出身地:秀吉に仕官した年/年齢)。
一、糟屋武則(かすや たけのり)播磨国:天正五1577年/16歳
一、片桐且元(かたぎり かつもと)近江国:天正二1574年/19歳
一、加藤清正(かとう きよまさ)尾張国:天正元1573年/12歳
一、加藤嘉明(かとう よしあき)三河国:天正二1574年/12歳
一、平野長泰(ひらの ながやす)尾張国:天正七1579年/21歳
一、福島正則(ふくしま まさのり)尾張国:天正元1573年/13歳
一、脇坂安治(わきざか やすはる)近江国:天正二1574年/21歳
※生年、仕官年については諸説あります。

左から加藤清正、片桐且元(左手前)、脇坂安治、秀吉(中央)、平野長泰、糟屋武則、福島正則(右手前)、加藤嘉明。歌川豊宣「賤ヶ嶽大合戦之図」より。
こうして見ると、年齢的に「子飼い」と言えそうなのは元服前後の加藤清正と加藤嘉明、福島正則と、辛うじて糟屋武則が入るくらいでしょうか。
20歳前後で仕官している片桐且元と平野長泰、脇坂安治は当時とすれば既に大人と見なされる年齢であり、若いとは言え「一緒に育った」という連帯感は生まれにくかったと考えられます。
もちろん、秀吉やその正室・おねは、みんな我が子のように分け隔てなく可愛がったでしょうが、出身地も大きく違えば方言をはじめ生活感覚や価値観も違ったため、少なからず確執があったことでしょう。
実際、福島正則が「脇坂などと一緒くたに扱われるのは気に入らない」など不満を洩らしたり、加藤清正も「七本槍」と持ち上げられる(揶揄される?)のを嫌がったりしたそうで、秀吉の過剰なまでの喧伝が、当時から冷笑の的であったことがうかがわれます。
(※秀吉の思いとしては、単に「育ての親」として「息子たち」の活躍を誇らしく思うが故の「親バカ」か、自分の手駒に優秀な武将を多く抱え込んでいることのアピールか、あるいはその両方かも知れません)
■意外?あの石田三成も賤ケ岳で大活躍していた!
そんな「賤ケ岳の七本槍」ですが、賤ケ岳の合戦で活躍したのは彼ら以外にも、桜井家一(さくらい いえかず)や石川一光(いしかわ かずみつ)、一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり)に大谷吉継(おおたに よしつぐ)、そして意外なことに石田三成(いしだ みつなり)も名前を連ねています。

三成と吉継。後に終生の盟友となる二人も、この時はがむしゃらに戦場を駆け巡る若武者だった。
軍略に疎く、槍働きよりも算盤勘定に長けたことで出世した「文弱の徒」というイメージの強い三成ですが、決して軟弱な訳ではなく、人を使ったり軍勢を率いたりする器用さに欠けていただけなのかも知れません。
七本槍に負けず劣らず武勲を立てた彼らの中から、興味深いエピソードを紹介して行きたいと思います。
【下】へ続く
参考文献:
池上裕子ら編『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月
高柳光寿ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1973年7月
白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年12月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan