太陽と月が生活基準。
今回はそんな【時間感覚】を体感し始めた江戸に生きる人々の“一日のスケジュール”を、浮世絵を交えてご紹介したいと思います。
■暁七つ(午前3時から午前5時頃)
■魚河岸がはじまる 江戸時代の朝はなんと言っても日本橋の魚河岸から始まります。
「三箱」という言葉がありますが、この“箱”とは“千両箱”のことをいい、江戸時代は朝は魚河岸に、昼には歌舞伎の芝居小屋、夜は吉原遊郭にそれぞれ“千両”もの大金が落ちたという意味を表す言葉なのです。
名所江戸百景 永代橋佃しま 画:歌川広重
もとはといえば1590年に徳川家康が江戸入りした際に、懇意にしていた摂津国西成郡佃村の名主・森孫右衛門と佃及び隣村の漁師34名を江戸に呼び寄せました。
森孫右衛門ら漁師たちは、江戸で隅田川にある洲を拝領しました。そしてそこで漁業を行い、徳川家の御膳魚を納める役を仰せつかりました。その“洲”というのが現在の佃島です。
その後、幕府に献上した魚の余りを“日本橋小田原河岸”で販売したというのが魚河岸のはじまりです。

江戸八景 日本橋の晴嵐 画;渓斎英泉
やがて日本橋には諸国から魚介、野菜、物産品などの品物を売る者たちが集まり、商いをはじめました。このようにして日本橋の魚河岸が江戸の台所を担うようになり、商人達が行き交う日本橋は朝から大変な賑わいとなりました。
庄家の小僧起き出す

「教訓善悪子僧揃 」 画;歌川国芳
この頃は商家も明六つ(午前6時ころ)に店を開けたので、最低でもその1時間前には眠い目をこすりながら小僧たちが起きて身支度をしなければなりませんでした。
長屋に住む男の子達は、お金を稼ぐためになんと10歳前後で家を出てどこかの商家などに泊まり込みで丁稚奉公に入りました。

〔米穀屋〕大州屋 作者不詳 都立中央図書館所蔵
■明け六つ(午前5時から午前7時頃)
女達朝餉の支度 江戸中に「明け六つ」の鐘が鳴ると、町々を守っていた町木戸が開かれます。長屋住まいのおかみさんたちは一斉に起き出して顔をあらったり歯を磨いたり、そして急いで朝食の支度を始めます。

台所美人 画:喜多川歌麿 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム
江戸では朝に五合の飯を炊き、お味噌汁を作りました。白米は朝、昼、夜で食べました。(上方では夜に五合の飯を炊き、その晩そして翌日の朝と昼で食べました)
旦那さんが出職(大工や庭師など外に出かける仕事)の場合は、朝五つ(午前8時頃)までには仕事場に着かなければならないので、のんびりしている暇はありません。
魚売り町へ繰り出す そのころ“棒手振り(ぼてふり)”と言われる人々が各町の井戸端や軒先にやってきます。

江戸八景 日本橋の晴嵐 (棒手振り・部分) 画:渓斎英泉
“棒手振り”の人達は朝早く日本橋の魚市場に行って商品を買い揃え、おかみさんたちがご飯を作る時刻に間に合うように色々な商品を売りに来ました。当時は冷蔵庫も無かったので、その日食べるものはその日に買うというスタイルでした。
この“棒手振り”という職業は、天秤棒と桶があれば始める事ができるということで、商売を初めたいと思う人は割と簡単に始めることができる仕事でした。
■朝五つ(午前7時から午前9時頃)
子どもたちは寺子屋へ さて、急いで旦那さんを仕事へ送り出した後、子供がいれば寺子屋へ行かせます。
前述の通り、長屋に住む男子は早ければ8歳か9歳には、職人や商家に奉公するために家を出なければなりません。また女子の場合は商家に奉公に出るか、もしくは縁あって武家屋敷などに奉公に出ることが出来れば、将来の嫁入りの履歴書に大きく光る経歴ともなります。
寺子屋の教師も子どもたちの家庭の状況をよく理解しており、授業料を作物などで受け取ったり、金額や支払い期間の調整をして子どもを受け入れていたようです。教師達の生活も楽ではなかったようですが、子供の教育への使命感がとても強かったと言われています。

文学万代の宝 始の巻・末の巻 画:一寸子花里(歌川花里)出典:東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
朝五つ(午前8時頃)には子どもたちは寺子屋へ出かけます。寺子屋ではまず“読み・書き・そろばん”を習いました。昼から仕事や手伝いなどで帰る子供も少なからずいました。そろばんは四則演算ができ、利息の計算まで出来るようになると、すぐに丁稚奉公として働きに出る子どももいました。
授業の様子はのびのびとしていましたが、年長者が年下のものを教えたり、落ちこぼれる子どもが出ないように、それぞれの子供に合わせて教えたりと、教育の質は高いものでした。教師と子供の関係性も強く、人生において寺子屋の先生を尊敬する人として挙げる生徒は少なくなかったようです。
女将さんの洗濯や針仕事

井戸端の洗濯と洗い張り 画:歌川豊国 シカゴ美術館所蔵
旦那さんと子供を送り出したら、おかみさんの次の仕事は掃除洗濯です。上掲の絵にも井戸端に集まって色々話しながら働く女性たちが描かれています。
これが“井戸端会議”の語源ともなったのですが、現代のように情報のやりとりが簡単に出来ることができなかった江戸時代では、これは大切な情報交換の場でもありました。
江戸時代、一般庶民は着物を古着で購入することが普通でした。洗い張りをしてきれいにしてから、それを着物として縫い直して来ていました。
また着物は構造上汗汚れも多く、町は土ぼこりが多かったので、きれい好きの江戸っ子はマメに洗濯をしました。
遊女たちの起床

「青楼十二時 辰の刻」画:喜多川歌麿 シカゴ美術館所蔵
そして吉原遊廓では、夜明け頃にお客を見送った遊女たちが起きる時刻です。遊女達は4時間程度の睡眠で起きなければなりません。遊女の仕事は傍から見るよりもずっと過酷だったのです。
次回は「浮世絵で見る・江戸を生きる人々の1日のタイムスケジュールはどうなっていた?(午前9時~)」に続きます。お楽しみに。
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