■前回のあらすじ

踏みにじられた貞操…戊辰戦争で活躍するも、敵の手に落ちた神保雪子の悲劇【上】

時は幕末、会津藩士・神保修理長輝(じんぼ しゅり ながてる)に嫁いだ神保雪子(ゆきこ)は、美男美女のおしどり夫婦として幸せな新婚生活を送っていました。

しかし、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)が京都守護職に就任すると修理はこれに随行、今生の別れとなってしまいます。


君命によって京都から長崎に派遣された修理は、世界情勢に開眼し「これからは幕府も朝廷も協力して、欧米列強に伍するべし」との見識を培いますが、朝廷では討幕(徳川討つべし)の機運が次第に高まっていきます。

一方の会津藩も主戦派が世論を圧倒、戦争は不可避のものとなるのでした。

■神保修理、鳥羽・伏見の敗戦責任をかぶせられる

明けて慶応四1868年1月3日、京都の鳥羽・伏見で戦闘が勃発。後世に言う「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」の火蓋が切って落とされます。

兵力でこそ優勢だった旧幕府軍でしたが、新政府軍が「錦旗(きんき。錦の旗=官軍の証)」を陣頭に掲げるや、朝敵(ちょうてき。朝廷の敵)となることを恐れた旧幕府側の諸藩は次々に降伏してしまいました。

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錦の御旗(黄色丸部分)を燦然と翻し、旧幕府軍を圧倒する新政府軍。昭皇斎国広「毛理嶋山官軍大勝利之図」明治時代

現代人の感覚からすれば「朝廷=皇室なんて、江戸時代を通じて幕府に抑えつけられていたくらいだし、いったい何が怖いの?」と思うかも知れません。

しかし、心ある日本人にとって国家統合の権威である朝廷に弓を引くことは、まさに「神をも畏れぬ暴挙」以外の何物でもありませんでした。

こうなってしまったら、もはや旧幕府側に勝ち目はありません。これ以上抵抗すれば、本当に「朝敵」の烙印を捺され、日本全国を敵に回すことになってしまいます。


「殿、かくなる上は恭順の意思を示すよりございませぬ。これ以上無駄な血を流すことなく、日本国のためと思し召して、どうかご決断を!」

官軍となった新政府軍への降伏を説いた修理ですが、諾とも否とも言わない内に、総大将の徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は容保やわずかな供を連れて、江戸へと逃げ帰ってしまいました。

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戦場から離脱する徳川慶喜。長谷川貞信「徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公」明治時代

これを見た会津藩の一同は「腰抜けの修理めが、軍事奉行添役でありながら、御殿をそそのかして撤退せしめたに相違あるまい!」「いや、そもそも鳥羽・伏見の敗戦は、あのような者がおったからじゃ!」……等々、修理を極刑に処するべしと声を荒げます。

戦場に取り残された父・神保内蔵助利孝(じんぼ くらのすけ としたか)や、義父・井上丘隅(いのうえ おかずみ。雪子の父)らと一緒に命からがら帰還してきた修理は、会津藩によって捕らわれてしまいました。

■必死の助命も虚しく……孤立無援の中で神保修理が切腹

「あぁ、何と言うことでしょう!」

会津の国許で夫の帰りを待ち焦がれていた雪子は、修理がいわれなき罪を負わされたとの報せに、身を引き裂かれる思いでした。

「誠実一途なあの人の事です、きっと理由があるに違いありません……どうか、どうか夫に面会させて下さいまし!」

修理が拘束されている江戸の和田倉上屋敷へ行かせて貰えるよう願い出た雪子でしたが、いかんせん非常時でもあることから、願いは聞き届けられません。

「誰か、誰か夫を……!」

雪子が会津で悲痛な声を上げていた一方、修理の救出を考えていたのは幕臣の勝海舟(かつ かいしゅう)。

長崎において修理と交流していた土佐脱藩の坂本龍馬(さかもと りょうま)や長州藩の伊藤俊輔(いとう しゅんすけ。後の伊藤博文)たちから、その英明さを聞かされていたのでした。

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長州の志士たちとも交流が深く、彼らに一目置かれていたことも、会津藩における修理の立場を危うくしていた。


「あれほどの人物に腹を切らせたら日本国の損失……とりあえず、身柄を幕府に差し出させよう」

という事で、幕府から会津藩に対して「鳥羽・伏見の敗戦責任者である神保修理は当方で処断いたす故、身柄を引き渡されたし」と徳川慶喜から通達を出させます。

しかし、会津藩では「主君に敗戦の憂き目を見せた会津の恥であるからして、我らが手にて処断申す!」と聞き容れません。

修理の無実を知っている容保はもちろん弁護に努めますが、もはや怒り骨髄に達していた会津の藩論を覆すことは出来ませんでした。

そして2月21日、一刻も早く処断すべしと謀る有志によって、容保が知らない内に三田下屋敷へ移送された修理は、偽命(ぎめい。主君・容保が出していない、偽りの命令)によって切腹を申し付けられます。

もはや孤立無援……かくなる上は潔く死のうと、修理は勝海舟に宛てて遺書を送っています。

「一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失はん。すなはち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。
人臣の節義は斃れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことをみよ」

※『旧会津藩先賢遺墨附伝』より

【意訳】死ぬことは元から覚悟している。しかし邪な企みによって忠義の志を失い、日本の再興は難しくなった。どうか君たちは生き残って、日本のために力を尽くすことを願っている。主君のために死ぬのだから、何の愁いがあろうか。人間である家臣の忠義は、死んで初めて完遂されるのだ。最後に遺言しておく。後世に私を弔ってくれる者は、どうか岳飛の哀しみを知って欲しい。

岳飛(がく ひ。崇寧二1103年~紹興十一1142年)とは南宋(なんそう。中国古代王朝)に仕え、大いに活躍したものの、敵国に買収された奸臣の讒言によって無実の罪に死んでいった悲劇の名将として知られています。

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切腹して果てた修理(イメージ)。


そして慶応四1868年2月22日、神保修理は切腹。享年35歳の若き俊才の死は、勝海舟のみならず、明治維新に活躍した多くの志士たちによって大いに惜しまれたとの事です。

【続く】

※参考文献:
阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち』歴史春秋社、2010年1月
中村彰彦『幕末会津の女たち、男たち 山本八重よ銃をとれ』文藝春秋、2012年11月
宮崎十三八・安岡昭男『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年1月

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