前回の記事
起源は今でも不明な点が多し。天下を獲った徳川家の母体「松平家」8代の歴史【その2】
■不慮の死を遂げた家康の祖父・清康
1511年、6代当主信忠の嫡男として生まれた「清康」。1523年に隠居後も影響力を維持していた祖父・道閲(長親)によって家督の継承を受ける。
松平清康 ウィキペディアより
以降は積極的に三河の掌握に努め、岡崎松平家の西郷信貞(松平昌安)を配下に置く。信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し、龍頭山に新岡崎城に移転。以降、岡崎を松平氏の拠点とした。
西三河の実質的な支配権を獲得した清康は、東三河への侵攻に着手した。今橋城、吉田城を攻め降伏させると、東三河国人衆の多くが清康に従属を申し出た。三河東端にあった宇利城を攻め落とすと、東三河の勢力掌握に成功する。
しかし、さらなる領土拡大を狙って尾張国へ進軍中の1535年、陣中にて家臣の阿部正豊に斬られ死亡した。享年25。
清康の死については、関係を悪くしていた叔父の信定による陰謀説がささやかれている。

松平家8代目当主「松平広忠」の墓
■二代続いた悲劇の死 家康の父・広忠
父親の清康死亡の際、息子の広忠はわずか10歳であった。清康の死によって混乱した松平宗家は、広忠との対立姿勢を明確にした信定によって乗っ取られる形となる。
信定は、広忠と清康の居城であった岡崎城を占領。実質的に一族を支配する。三河を追われることとなった幼い広忠は、最終的に今川氏を頼って駿河へ渡った。
1540年。広忠と近臣は、駿河国守の今川義元の助力により三河の室城に入城。三河に残る広忠派の譜代と信定の居城である岡崎城を預かっていた松平信孝(信定の甥、清康の弟)が広忠派に寝返り、広忠は岡崎城入城を実現する。
信定は、広忠の三河帰参が実現する前に、情勢が不利と見て帰順したが1538年に死亡した。
【その4へ続く】
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan