文武両道で容姿にも優れ、自由奔放な性格から将来を嘱望されていた飛鳥時代の貴公子・大津皇子(おおつのみこ)。わずか24歳という若さで謀反人として自死に追い込まれてしまいました。


その弟に深い愛情を注ぎながらも、生まれ育った飛鳥を旅立たなければならなかった姉・大伯皇女。別々の道を歩むことになった二人に忍び寄った悲劇とは……

万葉集に伝わる二人の和歌も絡めながらご紹介しましょう。

【その1】でご紹介した弟・大津皇子と姉・大伯皇女のプロフィールや二人が離れ離れになるまでのストーリーは、ぜひこちらをご覧ください。

引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その1】

■大津皇子の死の真相とは

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百人一首之内 持統天皇(写真:wikipedia)

大津皇子の死については、鵜野皇后(うののこうごう/後の持統天皇)の謀略説が一般に知られています。

天武天皇崩御直後の混乱期に、皇太子の草壁皇子(くさかべのみこ)の地位を大津皇子に脅かされることを怖れ、無実の罪を被せ死を命じたというものです。


引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その2】


天武天皇
(写真:wikipedia)

草壁皇子は本当に凡庸だったのか? この説は、草壁皇子が凡庸な人物であったということがベースになっているようです。大津皇子に比べ、正史に草壁の記述が少ないということも、その理由として挙げられます。

しかし、それは草壁が即位前に死去したためであり、天武天皇という絶対的権力の下では、目立った事績を残していないのは不思議なことではないのです。

草壁について気がかりなことがあるとすれば、健康に問題があったのではと考えられることです。天武天皇が崩御しても皇位に就くことなく、鵜野皇后が称制(※)を行います。

このあたりの事情を正史は明らかにしていませんが、なんらかの理由があったはずです。


※称制…天皇が在位していない時に、皇后や皇太子が代わりに政務を行うこと。

草壁皇子を頂点に諸皇子結束が天武と鵜野の願い
引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その2】


系図 (illustration:ERI)

天武天皇と鵜野皇后(後の持統天皇)の願いはただ一つでした。「吉野盟約」(※)で誓われたように、天武の次の治世は、草壁皇子が天皇に即位し、彼を頂点として、高市皇子、大津皇子らの諸皇子が補佐することでした。

そのうえで、律令を有した強固な中央集権国家を確立すること以外はなかったのです。

※吉野盟約:
679年、天武天皇が鵜野皇后をはじめ、草壁・大津・高市・川島・忍壁・施基の6皇子を伴い、吉野に行幸。草壁を頂点に諸皇子が結束することを盟約した。


■それでも消えない大津皇子という火種

引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その2】


皇子の存在が不安の火種に(写真:photo-ac)

683年、天武天皇は、21歳になった大津皇子に国政参加を許します。ともすれば、大津と草壁の権力争いを引き起こしかねない大津参政の理由は何であったのでしょうか?

草壁に嫡子が誕生、嫡系相承が固まる それは、草壁皇子に待望の嫡子・軽皇子(かるのみこ)が誕生したことでした。天武天皇→草壁皇子→軽皇子という、嫡系相承の流れができたのです。

繰り返しますが、草壁皇子を頂点とし、大津皇子らが臣下としてそれを補佐する体制こそ天武天皇が望んだことでした。才能あふれる大津ならば、必ずや天武系皇統を盤石なものとしてくれるだろうという切なる思いがあったのです。

しかし、皮肉なことに大津参政が、鵜野皇后のさらなる不安を掻き立てることになったのは間違いないでしょう。


■大津皇子の性格が謀反の嫌疑を引き起こした?

大津皇子の性格を物語るエピソードが『万葉集』にみることができます。ともに正妻がありながら、大津皇子が草壁皇子と石川郎女(いしかわのいらつめ)という女性をめぐり争ったという話です。

大津と草壁が石川郎女に贈った和歌
引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その2】


山のしずく(写真:photo-ac)

大津と草壁は、石川郎女に熱烈なラブコールを込めた和歌を贈ります。

大津皇子が石川郎女に贈った一首
「あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに」(万葉集 巻2-107)
(あしひきの山の雫に 君を待ち続けて 僕は濡れてしまった)

草壁皇子が石川郎女に贈った一首
「大名児を 彼方野辺に 刈る草の 束の間も われ忘れめや」(万葉集 巻2-110)
(大名児(石川郎女)が述べで草を刈る束の間も、僕は君のことを忘れることはない)

石川郎女が大津皇子に返答した一首
「我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを」 石川郎女(万葉集 巻2-108)
(私を待ってあなたが濡れてしまったというう山のしずくに私もなりたいわ)

今をときめく、二人の貴公子から熱烈なラブコールを贈られた石川郎女。彼女が選んだのは、皇太子の草壁ではなく大津でした。

自由奔放でおおらかな性格が災いしたのか?
引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その2】


皇子たちが暮らした飛鳥と大和三山(写真:T.TAKANO)

父と継母から、臣下として生きることを命じられた若き皇子は、皇位継承のライバルに恋の勝利をおさめ、どう思ったのでしょうか?

大津は、密かに石川郎女と結ばれたあと、その関係を指摘されると「公になるのを承知のうえで、私たちは二人寝をしたのだ」と堂々と宣言しています。


剛直で、自由奔放だったという大津の性格をあらわす逸話です。しかし、このおおらかさが後の悲劇につながっていくことになったのかもしれません。

【その3】に続く……

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