イエズス会の「巡察使」であった「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」と共に来日した黒人従者「弥助(やすけ)」は信長に気にいられ、そのまま家臣として仕えることになった。

今回は、【前編】に引き続き弥助という人物を考察する。


前回の記事

戦国時代にアフリカから日本へ? 織田信長に仕えた黒人従者「弥助」とは【前編】

■信長の家臣時代

信長の家臣となった弥助は「小姓」となって近江の安土城へ入り、信長の側で仕えたといわれる。来日してから一定期間が経過していた弥助は日本語が話せたようで、信長にとって良い用心棒であったのかもしれない。

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日本に到来した南蛮人(Wikipediaより)

武士の身分を与えられた弥助は信長に付き従い生活を共にした。そして1582年、「本能寺の変」が起こり信長が横死した際にも現場にいたとされている。

日本に来日していたイエズス会員が残した「イエズス会日本年報」には、弥助が信長の長男・信忠を守るために戦い最終的には投降したという記録が残っている。

当時、信忠は本能寺から少し離れた妙覚寺に滞在していた。信長の小姓であった弥助が信忠の元へ向かった真意は不明だが、何らかの指令を受けていたことが推察できる。

弥助を捕らえた明智光秀は、黒人であることを理由に弥助をイエズス会に引き渡したという。

■それから

弥助は「南蛮寺(イエズス会のよって京都に建てられた教会)」に送られたことはわかっているが、その後の足取りを記した資料は発見されていない。

ルイス・フロイスが残した歴史書「日本史」には、本能寺の変から二年後の1584年に肥前国(現在の佐賀県、長崎県周辺)で起こった「沖田畷(おきたなわて)の戦い」に関する記載の中で、黒人に対する言及がなされている。

九州の戦国大名龍造寺氏と有馬・島津氏連合軍が争ったこの合戦で、龍造寺軍を迎え撃った有馬軍の中に黒人がいたという。

また、1605年頃に描かれた「相撲遊楽図屏風」には、黒人と思われる男が相撲をとる絵が残っている。
この時代に関する他地域の別資料にも黒人と思わしき人物の記載は散見できる。

戦国時代にアフリカから日本へ? 織田信長に仕えた黒人従者「弥助」とは【後編】


「相撲遊楽図屏風」中央に黒人らしき人物を確認することができる(Wikipediaより)

当時の日本には、弥助と同様に従者や奴隷として来日した黒人は少なくなかったという。上述の資料や絵巻が弥助である確証はなく、その後どのような生涯を送ったのか知る術はない。

しかし、弥助のように武士の身分を与えられ、戦場に立つという経験をした外国人は少なかったのではないだろうか。

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