■これまでのあらすじ

戦国時代、近江国(現:滋賀県)で百姓の倅として生まれた久兵衛(きゅうべゑ)は、元服して田中宗政(たなか むねまさ)と称し、地元の領主である宮部継潤(みやべ けいじゅん)の婿養子となります。

やがて近江国へ進攻してきた羽柴秀吉(はしば ひでよし。
後の豊臣秀吉)に仕えて各地を転戦、数々の武功によって5,000石の領主に出世、秀吉から甥・羽柴秀次(ひでつぐ)の補佐役に抜擢されました。

若い頃から気さくな性格と熱心さで民衆や神様に愛されてきた久兵衛は、秀次が近江八幡43万国の大大名となった天正十三1585年、その筆頭家老として大いに政治手腕を発揮するのでした。

これまでの記事

百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【上】

百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【中】

■秀次を励まし、武功を立てて城持ち大名に

「御屋形様……?」

久兵衛は近江八幡(現:滋賀県近江八幡市)に赴任してからというもの、旧主・織田信長(おだ のぶなが)がその栄華を誇った安土城(あづちじょう)を八幡山に移築。後に八幡山城(はちまんやまじょう)と呼ばれました。

その城下町の整備にもセンスを発揮して、人々が暮らしやすく、商工業も発展できる街づくりを行いました。後に江戸時代中期まで「久兵衛町」と呼ばれたことからも、その功績と人望が偲ばれます。

若い頃より信心してきた近江八幡(現:日牟禮八幡宮)のご加護もあってか、まさに水を得た魚のように活き活きと奉公した久兵衛ですが……。

「……何でもない」

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へそを曲げる秀次(左)と、励ます久兵衛(イメージ)。

面白くないのは、主君の秀次。何でもかんでも久兵衛がこなしてしまうので自分の存在感は薄れるばかり。

もちろん、謙虚な久兵衛ですから驕り高ぶることなく、何よりも自分を第一に立ててくれるし、秀吉の覚えめでたくなるよう万事整えてくれるのですが、それすらも久兵衛の評判を高めるばかりでした。

まだ18歳と若いから仕方ないことではありますが、一日も早く実力を示したくて、焦ってしまうのもまた若さゆえ。


「それがしが18歳の頃など7石2人扶持で、その日の飯にも一苦労する有様にござった……片や御屋形様は、18歳のお若さで43万石の大大名。それがしなど及びもつかぬ御身分にございますれば、今に関白(秀吉)様の右腕として天下を動かす大仕事をなされましょう……」

「……そうか……」

久兵衛に励まされた秀次でしたが、天正十二1584年の小牧・長久手の合戦では老獪な徳川家康(とくがわ いえやす)の術中にハマって大失態を演じてしまい、秀吉や周囲の期待に応えられなかった過去があったのです。

「……まぁまぁ、勝敗は武門の習い……敗戦の教訓を次の勝利に活かすことこそ、知略の礎にございまする」

「……そうだな」

その後、秀次は天正十四1586年の九州(島津氏)平定、そして天正十八1590年の関東(北条氏)征伐に武功を立て、子供のいない秀吉の後継者としての信頼を再び築き上げていったのでした。

よく秀次を盛り立てた久兵衛も戦功によって三河国岡崎城57,400石(現:愛知県岡崎市)の所領が与えられ、ついに城持ち大名となるのですが……。

■秀次の切腹に際して、殉死よりも奉公を選ぶ

「……殿下!」

時は文禄四1595年7月15日、秀次が秀吉から切腹を命じられます。それまで秀吉の後継者として関白の位も譲られていたにも関わらず、文禄二1593年に実子・拾丸(ひろいまる。後の豊臣秀頼)が生まれるや、途端に疎まれてしまいました。

それで自棄を起こした秀次は欝憤晴らしに人を殺したり、比叡山の女人禁制を犯したりなど悪行三昧に走り、挙句の果てには秀吉に対する謀叛を企んだ……として関白の職を剥奪され、切腹に追い込まれたのです。

言うまでもなく久兵衛は筆頭家老として諫め続けてきましたが、いっさい聞く耳を持ってもらえないまま、最後は対面すらも叶いませんでした。

「……おい久兵衛、そなたも腹を切るべきではないのか」

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秀次事件に連座して、多くの重臣たちが切腹した(イメージ)。

今回の「秀次事件」に連座して、前野長康(まえの ながやす)、前野景定(かげさだ)、渡瀬繁詮(わたらせ しげあき)、木村重茲(きむら しげこれ)、粟野秀用(あわの ひでもち)、白江成定(しらえ なりさだ)、熊谷直之(くまがい なおゆき)、一柳可遊(ひとつやなぎ かゆう)、服部一忠(はっとり かずただ)と言った秀次の名だたる重臣たちが片っ端から死を賜っている中で、久兵衛ただ一人はお咎めなし。

そればかりか「秀次をよく諫め続けた」として加増された上に、秀吉から「吉」の字を拝領して田中吉政(よしまさ)と改名するなど明らかに不自然な処遇に、周囲の者たちは「久兵衛が(拾丸を後継者にしたい秀吉の意を汲んで)秀次を陥れたのでは?」と疑うようになりました。


「きっと治部(秀吉子飼いの寵臣・石田三成)と組んで仕組んだに違いない!」

「日ごろ善人ヅラしてその陰で主君を陥れるなど、武士の風上にも置けぬ!」

「そうだ、久兵衛に腹を切らせるべし!」

真に主君を思うのであれば、たとえ咎がなくとも、その死に殉ずる(後を追って死ぬ)べし……そうした武士たちの価値観を理解しない訳ではありませんでしたが、久兵衛は忠義のパフォーマンス(殉死)よりも、生きて天下公益に供することを選びます。

豊臣家中ではさぞや針の筵(むしろ)だったことでしょうが、天地神明に恥じることなければ、誰が何と言おうと奉公に励むまで……そして翌文禄五1596年、久兵衛は更に加増されてついに10万石の大大名に仲間入りしたのでした。

■関ヶ原の戦功で、ついに一国一城の主に!

そして慶長三1598年には秀吉も亡くなり、次なる天下人の座を狙う徳川家康と、豊臣家の天下を死守する石田三成が雌雄を決する関ヶ原の戦い(慶長五1600年)が勃発。

久兵衛は家康率いる東軍に属し、前哨戦である岐阜城の攻略、そして関ヶ原の決戦でも黒田長政(くろだ ながまさ。黒田官兵衛の嫡男)と共に三成率いる西軍本隊と激突。大いに武勲を上げたのでした。

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黒田長政と共に石田三成の陣を目指す久兵衛(田中吉政)。近江八幡から授かった「左三つ巴」紋が目印。

「治部が逃げたぞ!追え……っ!」

果たして合戦は東軍が勝利を収めたものの、戦場を脱出した三成が山中に隠れたため、その行方を見失ってしまいます。

「おのれ治部め……」

「……内府(家康)殿。ここはそれがしにお任せを」

三成が逃げる先は、間違いなく近江国の本拠地・佐和山城(現:滋賀県彦根市)。近江国一帯は土地勘がある久兵衛は宮部長房(みやべ ながふさ。
義父・宮部継潤の嫡男で、久兵衛の義兄弟)と共に三成の追捕を拝命。

既に三成は佐和山城へ逃げ込んでいましたが、久兵衛と長房は搦手より突入してこれを攻略。みごとに三成を捕らえたのでした。

一説には、陥落した佐和山城から脱出する三成に「内府殿に助命をとりなしてあげるから、しばらく隠れていなさい」と安心させて武具や兵糧の隠し場所を聞き出し、その上で身柄を拘束、再起の芽を摘み取ったとも言われています。

しかしこれは「旧主・秀次を裏切った久兵衛のことだから、きっとかつて(秀次を追い落とすため)の盟友?である三成も裏切ったに違いない」という先入観によるものかも知れず、確証はありません。

ともあれ久兵衛は関ヶ原の戦功によって柳川城(現:福岡県柳川市)と筑後一国32万石を与えられ、ついに一国一城の主となったのでした。

■エピローグ

百姓の倅から一国一城の主に成り上がった久兵衛は、堂々のお国入りに際して懐かしい顔を見つけます。

「おぉ、覚えておるか!わしじゃ、久兵衛じゃ!」

「……えぇ、覚えておりますとも。あの若者が立派になられましたなぁ……」

それは久兵衛がまだ7石2人扶持の駆け出しだったころ、茶屋の店先で桝(ます)を枕に寝ているところを諭した盲人(※完全に見えない訳ではない)でした。

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あの時から、数十年の歳月が流れていた(イメージ)。

「そなたのお蔭で、とうとうここまでやって来られた……改めて、礼を申す」

「まことに、まことにご苦労なされましたなぁ」

久兵衛は盲人を召し抱えて手厚くもてなし、その晩年を安らかに過ごさせました。つもる話も、山ほど聞いてもらったことでしょう。


若い頃から誠実一筋、お陰様で人々に慕われ、八幡様にも愛された人生でしたが、時にはダーティな仕事もしなければならなかった筈です。

「それもまた人生……いついかなる時も、またいかなる務めにも誠実に向き合い続けたお姿……この眼には、確(しか)と見え申す」

「そなたにそう言うて貰えるなら……すべて報われる」

かくして慶長十四1609年、久兵衛は62歳の生涯に幕を下ろしたのでした。その嫡男・田中忠政(ただまさ)は跡継ぎがいないまま亡くなったため改易(領地を没収)となってしまいましたが、その兄弟たちは久兵衛の血脈を受け継いでいきました。

また、かつて久兵衛が統治した近江八幡や三河岡崎、そして柳川の地には、現代も久兵衛の整備した町並みがその俤(おもかげ)を現代に伝えています。

【完】

※参考文献:
市立長浜城歴史博物館ら『秀吉を支えた武将 田中吉政―近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』市立長浜城歴史博物館、2005年10月
宇野秀史ら『田中吉政 天下人を支えた田中一族』梓書院、2018年1月

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