戦国時代、織田信長(おだ のぶなが)が「上総介(かずさのすけ)」という官位を名乗っていたことはよく知られていますが、先刻こんな質問がありました。

「何で上総『介』なの?大岡越前(おおおか えちぜん)みたいに、国司の官位は『守(かみ)』じゃないの?」

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大岡越前「守」忠相。
なぜ信長は上総「介」と称したのか、そもそも治めていない上総国(現:千葉県中部)を選んだ理由は……?

介とは国司を補佐(介助)する役で、名目上はその国におけるナンバー2の地位となります。せっかく自称するなら名目上でもナンバー1(守)の方がいいでしょうに、どういう理由があるのでしょうか。

■名乗っちゃいけない「上総守」、その理由は?

実は、信長も「せっかくならナンバー1の方がいい」と考えた時期があったようで、織田家の家督を継承した直後に「上総守」を自称したことがあります。

しかし、それからすぐ「上総介」に訂正。それと言うのも、実は「上総守」という役職は親王(しんのう。天皇陛下の嫡子・嫡孫)にしか許されない慣習があったのです。

それは平安時代、仲野親王(なかのしんのう。桓武天皇の皇子)が上総の国司(太守)となったことに始まり、後に桓武平氏の祖である平高望(たいらの たかもち。桓武天皇の皇孫)が上総介となったことから、上総介は「東国における桓武平氏のトップ」的な称号となりました。

※こういう親王殿下が太守を務めた国を「親王任国(しんのうにんごく)」と言い、他にも上野国(現:群馬県)や常陸国(現:茨城県)がそうでした。

しかし、戦国時代になると桓武平氏の流れを汲まない今川義元(いまがわ よしもと。清和源氏)が上総介を名乗ります。
桓武平氏の末裔を自称する織田家としては、面白くありません。

流石の「大うつけ」もためらった?若き日の織田信長が「上総守」を名乗らなかった理由とは


若き日の織田信長。自分の方が「桓武平氏のリーダーに相応しい」と、義元に張り合うべく上総「守」を自称するが……。

若く血気盛んな信長は「だったら、俺は義元より上位の『上総守』を名乗ってやる!」と対抗意識を燃やして張り合ってはみたものの、後から「それは流石にまずいです」と諫められて、直したものと思われます。

(信長はそれを知らず、慣習に逆らってまで「守」にこだわるつもりはなかったようです)

知っていれば事前に止めたでしょうから、きっと周囲の者たちは何も相談されておらず、信長が家督を継承すると同時に「今日から俺は織田『上総守』と称する!」などと宣言されて、さぞかし慌てふためいたことでしょう。

「殿、上総『守』はまずいですぞ……理由はこうこう云々かんぬん……」

「え、そうだったのか……でも、もう何枚か文書を出しちゃったな。むむむ……」

「何がむむむですか。古来『過而不改、是謂過矣(意:問題なのは、ミス自体よりそれを直さないことだ)』と申しますゆえ、今後は『上総介』にお改め下され」

「……解った」

こうして渋々「上総介」に直した信長は、やがて桶狭間の戦いで「上総介は俺一人で十分」とばかりに義元を撃破し、天下布武への道のりを歩み出していくのでした。

※参考文献:
柴裕之 編『戦国大名と国衆6 尾張織田氏』岩田書院、2011年12月
木下聡『中世武家官位の研究』吉川弘文館、2011年11月

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