世界的な観光地・京都にあって「足を踏み入れてはいけない」タブーなエリアの一つであった元遊郭地帯・五条楽園。【その2】では、2010年の取り締まりの末、色街として壊滅した五条楽園の闇をご紹介します。


【その1】も合わせてご覧ください!

京都に残る旧色街「五条楽園」。ディープな遊郭・お茶屋の街からレトロで個性あふれる街へ【その1】

■売春防止法施行以降も色街として存続

京都に残る旧色街「五条楽園」。ディープな遊郭・お茶屋の街から...の画像はこちら >>


東映太秦映画村に再現された遊郭(写真:wikipedia)

五条楽園の成立は、江戸時代後期頃とされます。昔から京都は、西陣織・京友禅・清水焼などを産する伝統産業の中心地で、多くの職人たちが暮らしていました。そんな彼らの遊び場として、遊郭などがある色街が存在していたのです。

もともとは複数の遊郭だったものが、大正時代に合併後は「七条新地」の名前で芸妓(※1)と娼妓(※2が)混在する色街でした。

※1芸妓:踊りや楽曲などの芸で主席の取りもちを行う芸者など
※2娼妓:遊郭や宿で男性に性的なサービスをする女性

京都に残る旧色街「五条楽園」。ディープな遊郭・お茶屋の街からレトロで個性あふれる街へ【その2】


明治10年代・遊廓での娼妓と客(写真:wikipedia)

しかし、1958年(昭和33年)の売春防止法が施行されたにもかかわらず、五条楽園は色街として存続しました。

そのためか、年頃の娘を持つ京都人は「あそこに足を踏み入れたら、嫁に行かれへんで」と言い聞かせていたそうです。

五条楽園は、男たちの快楽を得られる楽園ではあっても、働く女性たちにとっては金のために肉体を売りらなければならない世界。

一般的には、足を踏み入れづらい場所であることが、五条楽園の闇の部分だったと言えるでしょう。

■明治の初めにできた老舗暴力団組織の本拠

京都に残る旧色街「五条楽園」。ディープな遊郭・お茶屋の街からレトロで個性あふれる街へ【その2】


サウナの梅湯の隣には、今も何某暴力団事務所のビルが残る。(写真:TERUAKI.T)

五条楽園の、もう一つの闇の歴史といえるのが某広域暴力団の存在。明治初めにできた老舗組織で、五条楽園の中心に事務所を構えていました。


この組織は、抗争の末2017年に分裂後、事務所も京都地方裁判所により使用を禁止され、五条楽園から姿を消しました。

五条楽園に誰もが気兼ねなく足を踏み入れられるようになったのは、この頃からであったようです。

ちなみに、この組織の初代は、幕末に京都を守護した会津藩に仕える中間部屋頭。幕府方として鳥羽伏見の戦いに従軍し敗戦後、放置された会津藩士たちの遺骸を集め、懇ろに葬い、後に侠客として組織を結成したと伝わっています。

初代が亡くなった後、数代後までは祇園の商工業者からの献金を一切受け付けず、代わりに正月に和菓子を所望した……という逸話も残されています。

京都に残る旧色街「五条楽園」。ディープな遊郭・お茶屋の街からレトロで個性あふれる街へ【その2】


金戒光明寺の会津藩殉難者墓(写真:TERUAKI.T)

次回では、最近はレトロな街として人気を集めるようになった五条楽園の光の部分をご紹介しましょう。

【その3】に続く……

京都に残る旧色街「五条楽園」。ディープな遊郭・お茶屋の街からレトロで個性あふれる街へ【その2】


五条楽園遠景(写真:TERUAKI.T)

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