嫉妬・束縛・幽閉…。戦国一のヤンデレ夫、細川忠興の愛が重すぎて重すぎて。
それ以外にも忠興の性格や性質を表すエピソードがありますので、今回は忠興にまつわるエピソードをご紹介します。
細川忠興/Wikipediaより
■鼻の傷のことは聞いちゃダメ、ゼッタイ!
忠興は家臣から「天下一気が短い」と評されていました。またその性格で一生残る傷も負ってしまいました。
それは天正10年(1582)の山崎の戦い後のこと。南丹後を所有していた忠興は明智光秀に味方した北丹後を所有していた一色義定(いっしき-よしさだ)を、騙し討ちすると一色氏の家臣たちもことごとく討ち取り、丹後国統一を果たしました。
勝利に浮かれていたのは束の間、忠興は自身の妹で義定の正室伊也を保護した時に伊也が所持していた懐剣で鼻を一文字に切られてしまいます。

忠興の鼻の傷(イメージ)/信長の野望公式より
忠興は信長から感状を貰うくらい活躍した初陣で負った額の傷を名誉としていましたが、この鼻の不名誉の傷をとても気にし、以来傷のことを誰も口にしなくなりました。
■気に入らないことがあれば身内でも容赦なし【父親編】
忠興の短気さは敵だけではなく家族にも向けられました。慶長5年(1600)、忠興が上杉征伐のため丹後国にある居城田辺城を後にすると、好機とばかりに西軍に城を包囲されてしまいます(田辺城の戦い)。
忠興不在の中、少数で城を守っていた父の細川幽斎(ほそかわ-ゆうさい)は武士でありながら秘伝とされる古今伝授を継承された随一の文化人でもありました。

細川幽斎/Wikipediaより
幽斎の死によって古今伝授が断絶してしまうことを恐れた天皇は、勅命を出し西軍に田辺城を明け渡したことで戦いに終止符がうたれます。
しかし、忠興は城を枕に討ち死にすることなく、城を開け渡したことに不服だったのか田辺城の戦い以降、幽斎と不仲となりました。
勅命だろうが何だろうが忠興の居城を明け渡したという事実が、幽斎と不仲となった要因と考えられます。
■気に入らないことがあれば身内でも容赦なし【息子たち編】
忠興の短気さは父にだけではなく、息子たちにも向けられました。それは慶長5年(1600)、忠興の妻ガラシャが西軍の人質になることを拒み自決した時のこと。
ガラシャの側には忠興の嫡男忠隆の妻で前田利家の娘千世(ちよ)がいましたが、脱出に成功し前田家屋敷に逃れていました。
忠興は徳川家康が細川家と前田家の婚姻関係を良く思っていないことを知っていたので、今回のことを理由に離縁するよう忠隆に命じます。
しかし、離縁に納得せず忠隆は千世を庇うような行動を取りました。そのことが、つい最近ガラシャを失った忠興の怒りを助長させてしまい親子関係がこじれ、慶長9年(1604)には廃嫡されてしまいました。
また、忠興は次男興秋(おきあき)にも容赦のないことを行います。
忠隆が廃嫡となり、興秋が嫡男となるのかと思いきや、徳川家の人質だった三男忠利(ただとし)が徳川秀忠の信頼を得ていたことで、忠利が家督を継ぐことになりました。

細川忠利/Wikipediaより
これに不満だった興秋は慶長10年(1605)に細川家を後にし、その後の大坂の陣では豊臣方として戦います。
そして敗北後、家康は助命してきた興秋を許そうとしていましたが、忠興は許すことはせず、諦めた興秋は自害しました。
自分の判断に従わない者は例え息子たちでも容赦のない決定を下したり、当時大御所だった家康の判断を覆した忠興には鬼気迫るものがあったと感じてしまいます。
■愛刀の由来は三十六歌仙から
忠興の愛刀は歌仙兼定(かせんかねさだ)でその名に恥じない由来がありました。
それは忠興も和歌に精通しており、それにあやかった訳ではなく、忠興が不忠であることを理由に手打ちにした忠利の側近たちが関係していました。
その数はなんと36人!そこから三十六歌仙を引っ張り出し、愛刀の名前としました。
■最後に
身内にも容赦がなく短気な忠興ですが、晩年になるとこれまでとは打って変わって丸くなりました。

晩年の忠興/Wikipediaより
寛永19年(1642)には廃嫡によって絶縁状態だった忠隆と和解しています。また、忠利の体調を気遣ったりと子を想う親になったので、戦国の荒波の中で自然と角が取れてきたのだと感じます。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan