徳川幕府安泰のため、大阪の陣で豊臣秀頼を滅ぼした徳川家康。

次に狙いを定めたのが、京都にある秀吉の墓と秀吉を祀る豊国神社を破壊し、人々の記憶から秀吉を消し去ることでした。


ここまでのいきさつは、【前篇】もぜひご覧ください。

豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【前篇】

■秀吉から「豊臣乃大明神」の神号が剥奪される

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 神として祀られた秀吉だが、豊臣家の滅亡とともに家康により神号が剥奪された。(写真:塩川文麟画/長浜市立長浜城歴史博物館蔵)

徳川家康は、1614(慶長19)年の大阪の陣で豊臣秀頼を滅ぼしました。しかし、家康の豊臣家に対する仕打ちはそれだけにとどまりませんでした。

家康が次に狙いを定めたのが、京都における豊臣秀吉の痕跡を一切消し去ることだったのです。

それが、秀吉を祀る豊国神社とその墓である豊国廟の廃止でした。

1615(元和元)年、家康の意向により、勅許を得て「豊臣乃大明神」の神号が剥奪されます。ここにおいて、秀吉は神ではなくなり、その霊は方広寺大仏殿裏側に建てられた五輪塔に遷されました。

秀吉の遺体そのものは、阿弥陀ヶ嶽山頂の豊国廟に残されたまま放置されたのです。

豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【後編】


 阿弥陀ヶ嶽山頂に続く豊国廟の参道。(写真:Wikipedia)

■朽ちるにまかされた豊国神社と豊国廟

豊臣秀吉の痕跡をあとかたもなく消し去れ!墓も神社も破壊した徳川家康の執念 【後編】


 政治的に大きな影響力を有していた北政所。家康に嘆願し、豊国廟と豊国神社の破壊を阻止した。
(写真:Wikipedia)

家康の真意は、豊国神社と豊国廟の徹底破壊にあったことに間違いないでしょう。

それが、人々の記憶から天下人・豊臣秀吉の面影を消し去る手段であり、武家の頂点が徳川家であることを意識付けることであったからです。

しかし、豊国神社と豊国廟の破壊は、秀吉の正妻・北政所おねの嘆願により見送られることになりました。

当時、高台院に暮らしていた北政所は、まだまだ大きな影響力を有していました。その意向を家康とはいえ無視することはできなかったのです。

豊国神社も豊国廟も今後一切手を付けずに、朽ちるに任せることで、合意に至りました。家康にとって、これが最大限の妥協であったことと思われます。

こうして、秀吉の痕跡は一応、京都から消し去られました。しかし、幕府にとって決して安心できるものではなかったのでしょう。

1640(寛永17)年、豊国神社と豊国廟を繋ぐ参道上に新日吉神宮(いまひえじんぐう)が再興され、豊国神社は破却されました。

豊国廟へのお参りの道が完全に閉ざされたのです。

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 豊国神社と豊国廟を繋ぐ参道上に突如再興された新日吉神宮。
(写真:TERUAKI.T)

この時に、秀吉ゆかりの寺院として残されていた祥雲寺(しょううんじ・秀吉の長子・鶴松の菩提寺)がかつて秀吉と敵対関係にあった根来寺に由来する智積院に置き換えられ、方広寺も縮小されました。

この後、豊国神社と豊国廟は人々に顧みられることなく、200年以上にわたり、まさしく朽ちるにまかされたのです。

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 秀吉と対立した根来寺に由来する智積院。家康により祥雲寺跡に建てられた。(写真:TERUAKI.T)

■謎に包まれたままの秀吉の遺骸

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 再建された豊国神社の唐門は、秀吉の居城・伏見城の遺構とされる。(写真:TERUAKI.T)

豊国神社と豊国廟が復興されたのは明治に入ってからでした。明治天皇の命により、1875(明治8)年、豊国神社が方広寺大仏殿跡に再建されます。

現在の社殿はこの時のもので、国宝の唐門は伏見城の遺構とされ、南禅寺の塔頭・金地院から移されたものです。

豊国廟は、豊国神社に遅れること約20年、1897(明治31)年の秀吉300年祭に際し、整備の上、再興を果たしました。

だが、この整備中に驚きの発見がありました。秀吉の遺骸が異常な形で見つかったのです。

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 200年以上にわたり朽ちるに任された豊国廟。
明治の整備時に秀吉のミイラ化した遺骸が発見された。(写真:T Wikipedia)

秀吉の遺骸はミイラ化していました。しかし、天下人であったにもかかわらず、粗末な瓶に押し込められていたのです。

副葬品の類は全くありませんでした。江戸時代の初めに見舞われた盗掘によるものと思われますが、詳しいことはわかっていません。

そして、遺骸は風化により、ボロボロと崩れてしまったとのことです。崩れた遺骸は、集められ再度埋葬されたとも、発見時の混乱の中で紛失してしまったともいわれています。

こうして、秀吉の遺骸は全くの謎に包まれたまま今に至っています。

しかし、秀吉の魂は今でも阿弥陀ヶ嶽山頂から天下を見守っていることは間違いないでしょう。

前後編にわたり、ご愛読をいただきありがとうございました。

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