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戦国時代、弟に仕えた織田信長の兄・織田信広のあまり知られていない生涯【前編】
■謀反計画
1556年。信広は信長と敵対していた美濃国(現在の岐阜県)の斉藤義龍(道三の息子)と手を組み謀反を企てる。
信広は自らが後詰め(控え軍)として信長の居城である清洲城に入ることを利用し、城の乗っ取り作戦を計画。しかし、計画は信長方に漏洩しており失敗。信広は表立って信長に敵対し、数度の抗戦を試みるも程なくして降伏した。
弟の信行を殺害していた信長であったが、信広は赦免している。
信広が討死した長島一向一揆を描いた歌川芳員『太平記長嶋合戦』図(Wikipediaより)
■信長に尽力
以後は信長によく仕えた。一説には織田の姓を名乗らず「津田」姓を名乗ったという。(津田は織田の分家出身者が用いた姓)
信長が上洛を決行して以降は、京都に留まり室町幕府や朝廷と織田家の連絡係のような役目を担った。1573年には、関係が悪化していた室町幕府15代将軍「足利義昭」との交渉に信長の名代として望み、和睦を成功させている。
この頃の信広は織田家内でも重要な役回りを任されており、信秀直系の子孫として信長の信頼を回復していたことが伺える。
■武将として討死
織田家は、1570年頃から伊勢地方で本願寺門徒が武装蜂起した一向一揆に手を焼いていた。
1574年死去。享年は不明。弟である信長が1534年生まれであり、そこから逆算すると40代中盤から50代前半程度であった可能性が高い。
■子孫
男児はなかったとされる。娘の「桂峯院(けいほういん)」は、織田家の重臣として信長に仕えた「丹羽長秀(にわながひで)」の正室となって嫡男を生んだ。
以後、信広の血縁は丹波家に受け継がれていった。
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