信長の父・織田弾正信秀(おだ のぶひで)、信玄の家臣・高坂弾正昌信(こうさか まさのぶ)、足利将軍を暗殺した松永弾正久秀(まつなが ひさひで)……。
落合芳幾「太平記英雄傳 松永弾正久秀」
さて、この弾正とは官職で、何だかカッコいい響きですが、いったいどんな職務だったの?と訊かれると、即答出来る方は少なそうです。
■京都洛中の「風紀委員」的存在だった弾正台
弾正とは律令制度において制定された弾正台(~だい)の略称で、弾の文字は正と同じく「ただす」意味があり、京都洛中の風俗を取り締まる役職でした。現代で言えば、学校の風紀委員みたいなものでしょうか。
具体的には左大臣以下の非違を摘発し、天皇陛下に奏聞(そうもん。申し上げること)する権限を持っていましたが、検断権(けんだん。警察権&裁判権)は持っていませんでした。
そのため、いざ非違を見つけても天皇陛下に申し上げるだけで、当事者たちに手出しは出来ず、まさに「先生に言いつけるぞ!」という状態。やっぱり風紀委員程度の存在みたいです。
検非違使の出現により、形骸化した弾正台(イメージ)。
やがて嵯峨天皇(第52代。在位:大同4・809年~弘仁14・823年)の時代に検非違使(けびいし)が創設されると、非違に対する摘発・奏聞の権限を奪われ、形骸化してしまうのでした。
■よく叙任される「弾正弼」、よく自称される「弾正忠」
さて、そんな弾正台ですが、一口に弾正と言ってもその中にもランクがあります。
尹(いん/かみ):1名
弼(ひつ/すけ):大弼1名、少弼1名
忠(ちゅう/じょう):大忠1名、少忠2名
疏(そ/さかん):大疏1名、少疏2名
その他、さらに下級の台掌(だいしょう)や巡察(じゅんさつ)などの役があり、それぞれ正式に叙任された者や自称した者がいました。
【正式に叙任された戦国武将の例】
上杉謙信……弾正少弼
上杉景勝……弾正少弼
織田信長……弾正忠
松永久秀……弾正少弼
など。
【弾正を自称した戦国武将の例】
織田信勝(信長の弟)……弾正忠
真田幸綱(幸村の祖父)……弾正忠
高坂昌信……弾正左衛門尉(永禄2年・1559年以降、弾正忠に改称)
保科正俊(信玄の家臣)……弾正忠
など。
高坂弾正左衛門尉、改め弾正忠昌信。歌川国芳「甲陽二十四将之一個 高坂弾正忠昌信」。
こうして見ると、朝廷から正式に叙任されている武将は堂々と弼ランクを名乗る一方、勝手に(あるいは主君から認められた限りで)自称している武将については、やや控えめに弾正忠を選ぶ傾向があるようです。
信長の家系は、代々「弾正忠」を自称してきたため「織田弾正忠家」とも呼ばれますが、それを正式に朝廷から認めさせたことで、祖先たちの想いを結実させたのかも知れません。
また、弾正を自称した武将の多くは弾正忠を選んでいるようですが、高坂昌信の弾正左衛門尉(だんじょうざゑもんのじょう)というのは少しユニークですね。
■終わりに
戦国時代にはすっかり形骸化していた弾正台ですが、その後も武士たちの間で誇りをもって称され、武士の世が過ぎる明治初期まで、法を司る機関として存続しました。
他にも戦国武将たちの名乗った官職はたくさんあるので、それがどんな内容なのか、調べてみると楽しいですよ。
※参考文献:
和田英松『新訂 官職要解』講談社学術文庫、1983年11月
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