1581年。羽柴秀吉によって攻められた因幡国の鳥取城は籠城戦を展開。
しかし、秀吉による徹底した兵糧攻めによって戦況は凄惨を極めた。今回は【前編】に続き、鳥取城攻略戦の全容をご紹介する。

前回の記事

地獄の兵糧攻めに餓死者続出。羽柴秀吉が決行した「鳥取城渇え殺し」【前編】

■開戦

1581年2月。吉川元春による命によって経家は鳥取城に入った。鳥取城の兵力は4000程度であり、経家は籠城戦を想定した防衛網の整備と兵糧の蓄えを開始する。

しかし、秀吉側は軍師・黒田官兵衛によって事前に因幡国周辺の米を平時価格よりも高値で買い占め、兵糧の補給路を断つ事前作戦を決行。さらに鳥取城周辺の農村を焼き払い、行き場を失った農民が鳥取城に逃げ込むように仕向けた。

6月。秀吉の本軍2万が因幡国に侵攻。7月には鳥取城を包囲する。秀吉軍は秀吉のいる本陣と官兵衛のいる陣を分け、鳥取城を囲んだとされる。


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経家を鳥取城の救援に当たらせた「吉川元春」(Wikipediaより) 

■鳥取城渇え殺し

秀吉軍は積極的な攻撃をせず包囲網の維持に終始した。秀吉軍の到着前に十分な兵糧の確保ができなかった鳥取城には、約1ヶ月分の備蓄しか残されていなかったという。

兵糧はあっという間に底を突いたが、秀吉軍の戦略によって毛利氏からの援助は期待できず、鳥取城は完全に孤立。籠城兵や農民は城内の家畜や植物などを食べ生き長らえたものの、2ヶ月が過ぎる頃には食べるものがなくなり餓死者が目立ちはじめる。

3ヶ月を過ぎると餓死者が続出し、遺体を食べて生き延びる者もあったという。織田信長の生涯を追った資料「信長公記」には、この時の凄惨な様子が記載されている。

地獄の兵糧攻めに餓死者続出。羽柴秀吉が決行した「鳥取城渇え殺し」【後編】


鳥取城(Wikipediaより)

■経家の降伏

10月。約4ヶ月の籠城に絶えた鳥取城だったが、経家は城兵の助命を条件に降伏を決定。経家自身も助命される運びとなったが、城主としての責任として切腹を直訴。10月25日。家族宛に遺言書を残し、切腹して果てた。

秀吉による鳥取城攻めは凄惨で悲劇的な兵糧攻めの様子から、「鳥取城の渇え殺し」として後世に伝わっている。


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