今回は、『日本書紀』に登場し、卑弥呼の有力なモデルとされる倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)にスポットをあてます。『日本書紀』に記載される伝説などから、その謎を探っていきましょう。
■倭迹迹日百襲姫とはどんな人物?
崇神天皇のもとで、巫女的な役割を担った倭迹迹日百襲姫。(写真:wikipedia)
倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)は、『日本書紀』によると第7代・孝霊天皇の皇女で、第10代・崇神天皇(すじんてんのう)の叔母とされる人物です。
日本の天皇は、初代神武天皇から第9代開化天皇までは、実在性が薄い天皇とみなされています。そのため、ヤマト政権の初代大王は、第10代崇神天皇とされ、その在位は3世後半から4世紀前半というのが定説になっています。
倭迹迹日百襲姫は、そんな崇神天皇の側にあって、神を憑依させる巫女的な女性として『日本書紀』に登場します。
四道将軍[※注1]の一人、大彦命(おおびこのみこと)が不思議な歌を歌う少女に出合い、崇神天皇に報告した。
不思議に思った天皇が倭迹迹日百襲姫に占わせたところ、武埴安彦(たけなひやすひこ)が謀反を起こそうとしているというお告げがあった。そこで、天皇は、武埴安彦を討伐した。
この話は、倭迹迹日百襲姫の占いにより、反乱を抑え、崇神王朝が事なきを得たことを表しています。
こうした記述から、倭迹迹日百襲姫は、『魏志倭人伝』にいう「鬼道」を用いて、国の大事を占い、神託を告げる巫女(シャーマン)であったと想像できるのです。
※注1:崇神天皇が諸国平定のために、北陸・東海・西海・丹波へ派遣した4人の将軍。
■その墳墓から卑弥呼の有力候補とされる

倭迹迹日百襲姫の墓・箸墓古墳。卑弥呼の墓とも考えられている。(写真:wikipedia)
倭迹迹日百襲姫が、卑弥呼のモデルと考えられる大きな理由の一つは、その墳墓にあります。『日本書紀』には、倭迹迹日百襲姫の墓は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡内にある箸墓(はしはか)古墳とされ、宮内庁により陵墓として管理されているのです。
纏向遺跡は、邪馬台国畿内説の最有力候補地。その中にある古墳群で盟主的な箸墓古墳は、日本最古級の前方後円墳と目されています。
全長約280mの堂々たる姿で、後円部の直径約は約150m。『魏志倭人伝』にいう卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」(約180m)に近いことから、古くから卑弥呼の墓という説が唱えられてきました。
箸墓古墳の築造年代は一般には3世紀後半とされています。卑弥呼の没年は3世紀中頃の247~248年頃と推定されるので、卑弥呼の墓としては、約50年ほど合わないことになります。

纏向遺跡から発掘された土器類。
ところが、近年に箸墓古墳周辺から出土した土器を最新の年代測定法で科学調査したところ、240~260年という測定結果が出て、卑弥呼の没年とほぼ一致しました。これで、箸墓古墳=卑弥呼墓、倭迹迹日百襲姫=卑弥呼説が俄然湧きたったのです。
ただ、この年代測定法の分析精度に疑問を持つ学者も多く、さらに測定した土器があくまで箸墓古墳周辺から出土したものであるということから、考古学的には確定に至っていません。
しかし、こうした見地から、箸墓古墳が卑弥呼の墓であり、倭迹迹日百襲姫が卑弥呼のモデルである可能性は高まりました。でも、考古学的にはこれが限界ともいえます。

纏向遺跡の大型建物跡。卑弥呼の宮殿の可能性がある。(写真:wikipedia)
ここからは、文献の解読が必要となります。後編では『日本書紀』に記された倭迹迹日百襲姫にまつわる記述から、彼女の正体に迫ってみましょう。
【後編】に続く……
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