戦国時代。四国で権勢を奮った大名「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」は、名君として知られたが、息子の死によって晩年は人格が豹変した。


今回は【前編】に続き、西国を代表する戦国大名・長曾我部元親の栄華と没落をご紹介する。

前編はこちらから

溺愛した愛息の死で人格豹変。戦国大名「長曾我部元親」の栄華と没落【前編】

■四国平定

信長の死により勢力を盛り返した元親は、四国平定の過程で羽柴秀吉と対立。度重なる秀吉軍の侵攻を退けた元親は、1584年に伊予国の河野氏を降伏させると翌年までに有力豪族を服属させることに成功。

四国全土を掌握し、長曾我部氏の全盛期を築き上げる。(※長曾我部氏の四国統一には異説も存在する)

■嫡男・長曾我部信親との関係

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長曾我部信親(Wikipediaより)

元親には四男四女がいた。
中でも1565年に生まれた嫡男・信親は幼少時から聡明であったとされ、元親は遠方から学者や武芸の師を招き英才教育を施すなど、跡取りとして溺愛し育てたという。

信親の「信」は友好関係にあった時代に織田信長から与えられたもので、元服後の信親はは、元親に従い各地を転戦した。

■秀吉への臣従と信親の死

1585年。四国を平定した元親であったが、秀吉との間で四国領土を巡る諍いが起こり戦へ発展する。元親軍は秀吉軍に対抗するも圧倒され降伏。阿波・讃岐・伊予を没収され土佐一国のみを安堵された。


1586年。秀吉の命によって九州征伐に従軍するが、参戦した戸次川の戦いで敗走。元親は難を逃れるも、嫡男・信親は討死してしまう。

■晩年の豹変

信親を失った元親は動揺から全盛期の勇猛さを失っていった。信親を追って自決を謀ったり、信親の代わりに四男の盛親を後継に据えると、反対派の家臣たちを切腹させるなど、情緒の起伏が激しくなり家中は混乱した。

溺愛した愛息の死で人格豹変。戦国大名「長曾我部元親」の栄華と没落【後編】


元親の四男「長曾我部盛親」(Wikipediaより)

後継とした盛親に亡き信親の娘を娶らせるなど、死してもなお信親に対する溺愛ぶりが伺える。


1599年。死去。享年61。後を継いだ四男の盛親は関ヶ原の後に改易され、大名家としての長曾我部家は滅亡した。

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