平城京を中心に、東大寺・興福寺・春日大社などの寺社が建立され、国際色豊かな仏教文化が花開いた奈良時代(710~794年)。

その舞台である奈良は、悠久の歴史ロマン溢れる場所として親しまれています。


しかし、奈良時代の実態は、そうしたイメージと全く異なり、全時代を通じて、天皇・皇族・貴族の間で、血で血を洗う争乱が続いた時代でした。

なぜ、奈良時代に血なまぐさい争乱が続いたのか、その理由を政争史に的を絞りながら、奈良時代の歴史をお話しましょう。

■奈良時代に天皇家・貴族が絡む抗争が続いた理由

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復元された平城宮大極殿。奈良時代の貴人たちは、太刀をはき、馬で平城京を駆け巡っていた。(写真:wikipedia)

読者の皆さんは、古代の天皇・皇族・貴族にどんなイメージをお持ちでしょうか?おそらくは、『源氏物語』の主人公・光源氏のような華やかだけど、少し弱々しい貴公子をイメージする人が多いのではないでしょうか。

しかし、奈良時代の天皇・皇族・貴族の多くは、太刀や弓の技を習得し、馬を自由に操る。そんな武人としての一面も持っていました。

奈良時代になると天皇の地位はある程度確立してきます。それは、645年に起きた乙巳の変(中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼした事変)を契機に大化の改新による中央集権体制が進められ、さらに、壬申の乱を経て、天武・持統朝で天皇を頂点とする皇親政治が形成されたことによるのです。

しかし、そうした政治体制が、天皇をトップに頂きながら、そのもとで皇族や貴族たちによる政争が頻繁に起こるという事態を招いてしまいました。

血気盛んな奈良時代の貴人たちは、藤原氏の専制を許すことなく武をもって立ち上がったのです。それが血で血を洗う抗争に発展したということができるでしょう。


■新興貴族藤原氏の隆盛が始まる

密告と殺戮!奈良時代、それは血で血を洗う争乱が続いた時代だった。【前編】


藤原氏の繁栄のもとを築いた藤原不比等。(写真:wikipedia)

奈良時代の政治史に重要な足跡を残したのが、中臣(藤原)鎌足の次男・藤原不比等(ふひと)でした。

持統天皇のもと一躍頭角を現し、大宝律令の編纂で中心的な役割を果たすことで、歴史の表舞台に立ちました。さらに、長女の宮子を持統の孫の文武天皇室とし、聖武天皇が誕生すると、天皇家の外戚として地位を固めていきます。

文武は、持統が寵愛したものの早世した草壁皇子(天武と持統の間の皇子)の子です。そうした文武だけに、即位すると持統が太政天皇(譲位により皇位を譲った天皇)として後見につきました。こうして、不比等と持統の関係はさらに深まったと考えられます。

不比等はその後、次女の長娥子(ながこ)を太政大臣・高市皇子(天武天皇の長子)の子長屋王に嫁がせます。そして、三女の安宿媛(光明子/後の光明皇后)を聖武に嫁がせ、藤原氏と天皇家との関係を盤石なものにしました。

不比等の死後は、その子である武智麻呂(むちまろ/南家)・房前(ふささき/北家)・宇合(うまかい/式家)・麻呂(まろ/京家)のいわゆる藤原四兄弟に引き継がれます。この四兄弟がその後、日本の歴史に大きな影響を与え続ける藤原氏の源流となるのです。

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仏教を国家安泰の手段とした聖武天皇は不比等の孫にあたる。
(写真:wikipedia)

■政権は元一時藤原氏を離れ、皇族の橘諸兄へ

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光明皇后の立后を実現させた藤原四兄弟の武智麻呂と麻呂。(写真:wikipedia)

藤原四兄弟は、元正天皇、聖武天皇のもとで、その勢力を伸ばしていきます。彼らは、天皇家と藤原氏の関係を強化するため、聖武天皇に嫁いだ妹の安宿媛の立后を目指しました。

729(神亀6)年、下級役人たちから「右大臣の長屋王が呪詛により国家を傾けようとしている」という密告がなされました。藤原四兄弟はこの密告を逃しませんでした。

朝廷軍を率いて長屋王邸を囲むと、厳しく王を糾問します。その結果、長屋王は謀反の罪で、妻の吉備内親王とその皇子たちとともに自死に追い込まれてしまったのです。[長屋王の変]

長屋王の変の理由としては、王が安宿媛の立后に反対していたということが定説です。藤原四兄弟は、こうして、安宿媛を皇后(光明皇后)とすることに成功しますが、折から猛威を振るった天然痘に相次いで斃れてしまいました。

この時、四兄弟の子たちが若かった(政権参加は武智麻呂長子の参議豊成のみ)こともあり、政権は敏達天皇の子孫である橘諸兄が担当します。諸兄は、異父兄妹である光明皇后と協力し、四兄弟の政策を引き継いでいきます。

しかし、藤原氏の勢力が不比等の頃と比べると衰退していたのは事実で、それに不満を持った宇合の長子広嗣(ひろつぐ)が、740(天平12)年、九州で反乱を起こします。
[藤原広嗣の乱]

藤原広嗣の乱は、派遣された朝廷軍により、ほどなく鎮圧され、広嗣は弟の綱手や部下たちとともに九州で斬首されました。

しかし、聖武天皇にとって皇后の実家である藤原氏から反乱が起きたのは大きな衝撃でした。乱の際中、聖武は平城京を脱出、恭仁・紫香楽・難波の宮を転々とし、ますます仏教に傾倒していくようになったのです。

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人臣初の皇后(諸説あり)として、大きな権力をふるった光明皇后。(写真:wikipedia)

■勢力を拡大する仲麻呂と反発する貴族たち

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藤原仲麻呂の邸宅・田村第跡地。(写真:T.TAKANO)

藤原広嗣の乱後、藤原武智麻呂の次男仲麻呂が台頭してきます。そして、749(天平勝宝元)年、聖武天皇と光明皇后の娘である孝謙天皇が即位すると、その勢いは急激に伸び、新設された紫徴中台の長官に就任しました。

紫徴中台とは、若い孝謙を後見する光明皇后が大権を振るうために皇后宮識を改めた機関でした。仲麻呂は、その長官として光明皇后・孝謙天皇を後ろ盾にして権力を拡張していったのです。

仲麻呂は、専制体制を築くべく、先ずは橘諸兄を引退に追いこみます。さらに、聖武が皇太子に指名した道祖王(ふなどおう/天武の皇子・新田部親王の子)を素行不良として廃しました。

そして、新たに大炊王(天武皇子・舎人親王の子)を皇太子に立てます。
大炊王は、仲麻呂の長男(早世)の未亡人を妻として、仲麻呂の屋敷に暮らしており、いわば身内であったのです。

こうした仲麻呂の動きに対して、諸兄の子である参議・橘奈良麻呂が757(天平勝宝)9年にクーデターを企てます。奈良麻呂は、ヤマト政権以来、武力で朝廷を支えた貴族である大伴氏・佐伯氏を中心に、仲麻呂に不満を持つ皇族たちとも図り、大炊王を廃して、別の皇族を奉じる計画を立てたのです。

この計画は、密告により仲麻呂の知れるところとなります。乱の首謀者・参加者たちは捕えられ、その多くは取り調べ中に行われた激しい拷問により獄死し、生き延びた者も多くが配流処分となりました。[橘奈良麻呂の乱]

クーデター未遂の翌年、孝謙天皇は譲位し、大炊王が淳仁天皇として即位します。仲麻呂は、恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、朝廷最上位の大師(太政大臣の唐名)に昇り詰めたのでした。

【後編】に続きます…

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