秀吉は京都から約200kmメートル離れた備中(岡山県西部)におり、毛利氏の高松城を攻め落とそうと水攻めをしていたところでした。
ドラマでは「主君死す!」の報に、神がかった速さで明智光秀を討ちにやってくるドラマティックな描き方をされますが、今回は「本当に速かったのか?」を検証します。
「山崎大戦之図」月岡芳年
<時系列>
- 6月2日早朝 明智光秀が織田信長を討つ
- 6月3日夜頃 豊臣秀吉に知らせが届く
- 6月4日 秀吉、毛利輝元に信長の死を伏せ、信長が攻めてくるぞと騙して講和へ
- 6月12日 京都・山崎に到着
- 6月13日 明智光秀を討つ
あれ?これって・・・普通に歩く速度と変わらないのでは・・・。
そう、実は大返しのスピードは、普通の歩行速度と同じだったのです!
現代で行うとしたら、午前と午後、2回にわけてお昼休憩1時間を挟むとして、8時に出発して17時には終わる計算になります。
しかし、連日30km近くを歩くのは、現代人じゃなくても相当疲れるものだと思います。毎日きっちり管理された距離を歩いたわけでもありません。しかも2万人の軍勢です。
ここで行程をみてみます。
<行程>
- 6月6日 高松出発(高松城-沼城間22 km)
- 6月6日 沼城(沼城-姫路城間70 km)
- 6月7か8日 姫路城に帰還
- 6月9日未明 姫路出発(姫路城-明石間35 km)
- 6月9日 明石到着(明石-兵庫間18 km)
- 6月10日 兵庫到着(兵庫-尼崎間26 km)
- 6月11日朝 尼崎到着
- 6月11日夜 尼崎出発(尼崎-富田間23 km)
- 6月12日 富田到着(富田-山崎間6 km)
- 6月13日 山崎到着
2万人といえばだいたい、「秩父宮ラグビー場」がやや満席になる規模の人数です。
凄いのは、隊を分けて移動したとしても、2万人の食料や野営地を確保しながら移動したことでしょう。しかし結果的に、中国大返しは神業!とまでいわれる大げさなものではなかったようですね。
参考文献:『科学でツッコむ日本の歴史~だから教科書にのらなかった』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan