天下を獲った徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えた四人の名将「徳川四天王(忠勝ほか井伊直政、酒井忠次、榊原康政)」の筆頭(※異論は認めます)として数々の合戦に参加しながら、生涯かすり傷一つ負わなかったと言われる伝説級の強さを誇った忠勝ですが、彼はその生涯において三度「死にたくない」と言ったことが確認されています。
天下にその名を轟かせた猛将・本多忠勝。Wikipediaより。
数々の修羅場をくぐり抜け、誰一人として傷をつけることができなかった豪傑がそのような弱音を吐くとは意外な気もしますが、いったいどういう理由があったのでしょうか。
■家康と共に乗り越えた若き苦難の日々
その前に、まずは本多忠勝がどのくらい強かったのか、ピンと来ない方もいるかも知れませんから、ごくざっくりとその生涯を振り返ってみましょう。
忠勝は天文17年(1548年)2月8日、三河国(現:愛知県東部)の小大名・松平(まつだいら。後の徳川)家に代々仕えた本多家の長男として誕生しました。幼名は鍋之助(なべのすけ)、長じて平八郎(へいはちろう)と称します。
当時、松平家は大大名の今川義元(いまがわ よしもと)に臣従しており、家臣たちはその尖兵としてこき使われ、父・本多忠高(ただたか)も無理な作戦によって討死。当時2歳だった鍋之助は叔父の本多忠真(ただざね)に養育されました。
今川家の人質となっていた竹千代(たけちよ。家康の幼名)は5歳年上で、苦難の日々を共に乗り越え、実の兄弟以上に深い絆を育みながら、いつか独立を取り戻す日を夢に見ていたことでしょう。

今川義元の最期。Wikipediaより。
初陣は13歳となった永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長(おだ のぶなが)に討ち取られると、竹千代改め松平元康(もとやす)はドサクサ紛れで独立を回復。信長の盟友として天下人への道のりを歩み出した元康を、忠勝は槍働きをもって大いに助けるのでした。
■家康に 過ぎたるものが 二つあり…数々の武功を立てる
以降、生涯57回にわたって出陣、姉川の合戦(元亀元・1570年)では朝倉義景(あさくら よしかげ)率いる1万の軍勢に単騎で突撃を敢行、敵の豪傑・真柄十郎左衛門(まがら じゅうろうざゑもん。直隆)を討ち取って武名を馳せます。
また元亀3年(1572年)には一言坂で武田信玄(たけだ しんげん)の軍勢と戦い、圧倒的不利な状況下で敵中突破に成功。その武勇を称えた人々は、こんな狂歌を詠んだそうです。
「家康に 過ぎたるものが 二つあり
唐の頭に 本多平八」

「唐の頭」の兜をかぶった徳川家康。ヤクの毛で覆われている。Wikipediaより。
唐の頭(とうのかしら)とは中国大陸から輸入したヤクの毛をあしらった兜で、舶来品とあって当然高級品。
さらに武田討伐でも数々の戦闘に武功を立て、人々は「蜻蛉(とんぼ)が出ると蜘蛛(くも)の子散らす」「手に蜻蛉 頭に角の すさまじき 鬼か人か しかとわからぬ」などはやし立てたと言います。
蜻蛉とは、忠勝の得物である名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」。以前、この槍を立てておいたところ、その先端にとまった蜻蛉が鋭さのあまり自分の体重(0.何グラム?)で切れてしまったという逸品です。
頭には鹿の角(※)を生やした兜(鹿角脇立兜)をかぶった凄まじい姿で、鬼神か人間か、確かなことは(確と≒鹿と)わからない……という意味になります。
(※)ちなみにこの鹿の角は本物ではなく、和紙の重ね貼りで造形した上から黒漆を塗り固めたものだそうです。
他にも黒糸縅胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)や自分の屠った敵を弔うために肩に大きな数珠をかけた姿で知られ、その姿を見た者たちは、さぞや震え上がったことでしょう。
その後も武勲を重ねた忠勝は、羽柴秀吉(はしば ひでよし)と対立した小牧・長久手の合戦(天正12・1584年)において500の軍勢で秀吉の大軍を足止めし、その武勇に惚れ込んだ秀吉をして「忠勝は絶対に殺すな(生け捕って家臣にしたい)」と言わしめます。

あまりの強さに、敵味方から敬愛された本多忠勝。水野年方 「本多忠勝小牧山軍功図」
天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5・1600年)でも90の首級を挙げたと言いますが、この時すでに53歳。当時としてはかなりの高齢者ながらなお矍鑠(かくしゃく)として、平素から鍛錬を欠かさなかった賜物でしょう。
さて、そんな忠勝も戦乱の世が次第に収まりつつある中、武力一辺倒の者たちは次第に居場所すなわち奉公の機会を失っていきます。
「……まぁ、平和なのはよいことじゃが……」
やり切れぬ思いを抱えながら、慶長15年(1610年)10月18日、忠勝は63歳の生涯に幕を閉じたのでした。
■エピローグ「もっと生きて、ご奉公したい」
以上を踏まえて、忠勝の詠んだ辞世がこちら。
「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな何の予備知識もなく、ただこの辞世だけ見ると「何と情けない泣き言を……」と思ってしまいそうですが、これを天下に隠れなき豪傑・本多忠勝が詠んだとなれば話は違います。
深き御恩の 君を思えば」
【意訳】
死にたくない あぁ死にたくない 死にたくない
深き御恩を下さった あなたのことを思うと
「まだだ!まだ足りぬ!上様(家康)から受けた御恩を返すには、もっと生きてご奉公せねばならんのに、今ここで死んでしまったら悔いが残る!」

終生揺らぐことのなかった主従の絆。月岡芳年「徳川治績年間紀事 初代安国院殿家康公」より。
更には「離れ離れなんて嫌だ!もっと上様のお側にいたい!もっともっとご奉公して、上様に褒めてもらいたい!」という思いもにじみ出してくるようで、忠犬にも喩えられた三河武士らしい一首と言えます。
どこまでも家康一筋に仕えた忠勝は、きっと後からあの世にやって来た家康を熱烈歓迎し、それこそ犬のように喜びはしゃいだことでしょうね。
※参考文献:
歴史の謎研究会 編『刀剣・兜で知る戦国武将40話』青春文庫、2017年11月
結城凛 編『歴史ミステリー 日本の武将・剣豪ツワモノ100選』ダイアプレス、2020年11月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan