こと武家に生まれた/嫁いだ女性であれば、美しさと共に強さも備えることで、その覚悟と嗜みを証することが求められました。
戦国乱世も遠く去りつつあった江戸時代、一部の大名家では別式(べつしき)を置いたと言いますが、別式とはいったいどんな役職で、どんな役割を果たしていたのでしょうか。
今回はそれを調べてみたので、紹介したいと思います。
■男装の女性武芸者たち
別式とは大名家の奥向き(幕府でいう大奥。子女などの居住区)で女性たちに武芸(剣術、薙刀、鎖鎌、馬術など)を指導する役職で、担当する女性は男装で臨みました。
時として男性以上に勇ましかった?別式の雄姿(イメージ)。
名称について由来は不詳ながら、本式(≒男性)の武芸者を女性の多い奥向きに入れるのは都合が悪かったであろうため、女性の武芸者を「別式」として入れたものと考えられます。他には刀腰婦(たちはきめ)、帯剣女(たちおびめ)などと呼ばれました。
その姿は家によって異なるものの、ある家では眉を剃って墨を描かず青いままの顔、大小の刀を差し、着物は対丈(ついたけ。背丈に合わせて着物を仕立て、裾を引きずらず活動しやすい)に着た勇ましい(ある種異様な)ものであったそうです。
江戸時代初期の寛文年間(1661~1673年)ごろから各家で流行り始めたそうですが、これは元和偃武(げんなえんぶ。元和元・1615年、豊臣家の滅亡による戦国乱世の終結)による泰平の世が実現して約半世紀が過ぎ、次第に武家も軟弱化しつつあったことを憂えた反動と言われます。
(※)逆に戦国乱世まっさかりの頃は、上方より公家の女性を迎え入れるなど、家庭生活を少しでも美しく、雅やかにすることが好まれましたが、数十年で世の中は大きく変わるものです。
「よろしいか!公方様のご威光をもって天下泰平なれど、いつまた戦乱が起こらぬとも限りませぬ!我ら女子(おなご)も『治にあって乱を忘れず』の精神をもって武芸を嗜まずば、御家を守ることなりませぬぞ!」
「「「はいっ!」」」

女性たちを厳しく指導する別式(イメージ)。
見上げた(ちょっと過剰な?)危機管理意識と言うか、ある種の戦国乱世ノスタルジー(平和ボケに対するやましさ?)が感じられる光景は、御三家(尾張、紀伊、水戸藩)はじめ外様の長州毛利藩、薩摩島津藩、加賀前田藩など全国17、8家で見られたそうです。
日本全国「300諸侯」とも呼ばれた藩の全体数からするとごく少数ではありますが、別式を供えていた藩は、徳川家を守ろうとした、あるいは討伐しようとその機を(約200年にわたって)狙い続けた意識の高さがうかがわれます。
いつか必ず、徳川家を護る/倒すために……青々と剃り上がった彼女たちの眉跡には、男性武士以上の決意が込められていたのかも知れませんね。
※参考文献:
稲垣史生『三田村鳶魚 江戸武家辞典』青蛙房、2007年8月
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