「一本の矢は簡単に折れるが、三本まとめるとなかなか折れない。よいか。
お前たち兄弟も、このように力を合わせて毛利家を守っておくれ……」

戦国時代、老い先短い病床にあった毛利元就(もうり もとなり)が、3人の息子たちに遺言したと言われる「三矢(さんし)の教え」。

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息子たちに三矢の教訓を説く病床の毛利元就。浦直三洲筆。

血で血を洗う乱世を生き抜くためには、兄弟どうし内輪もめなどしている場合ではない……父の切実な思いを受け止めた三兄弟は、団結して毛利家を支えたのでした……めでたしめでたし。

という有名なエピソードですが、実はこれ、後世のフィクション(創作)なんだそうです。一体どういうことなのか、またフィクションにしても、元になった出来事は何かないのか、今回はその辺りを調べたので、紹介したいと思います。

■元就の最期を看取ったのは三兄弟のうち隆景のみ

毛利元就には、確かに毛利隆元(たかもと。長男)、吉川元春(きっかわ もとはる。次男)、そして小早川隆景(こばやかわ たかかげ。三男)という3人の息子がいましたが、長男の隆元は元就(元亀2・1571年没)が亡くなる8年前の永禄6年(1563年)に先立っているのです。

また、次男の元春は当時遠征中だったので、実際に元就の最期を看取ったのは、三男の隆景と孫(隆元の子)の毛利輝元(てるもと)だけでした。

「三矢の教え」はフィクションだった?戦国大名・毛利元就が息子たちに遺した教訓とは


三兄弟(隆元は死亡、元春は不在)と輝元。
Wikipediaより。

となれば、必然的に「三矢の教え」エピソードは史実に沿ってないことになりますが、その初出には諸説あり、江戸時代の逸話集『常山紀談(じょうざんきだん)』や『前橋旧蔵聞書(まえばしきゅうぞうききがき)』などが出典と考えられています。

ただ、これらの文献だと、元就は(史実に沿って隆元と元春を除く)大勢の息子や孫たちを集めて「一本々々の矢はたやすく折れるが、束にすれば折れない」という形で伝えており、代々語り継がれていく中で、3兄弟というシンプルで安定感のある数字とストーリーに洗練されていったのでしょう。

なので、矢を束ねた元就の遺言は「もしかしたら言ったのかも知れないけど、それを裏づける史料が確認できない」というのが正確なところです。

■その長さ3メートル!元就の長い長い長い手紙

では、この「三矢の教え」エピソードが完全にフィクションなのかと言えばそうでもなく、元就が三人の息子たちに宛てた弘治3年(1557年)11月25日付の書状が遺されており、これが「三矢の教え」の元ネタと考えられています。

読んでみると、これがまた非常にくどく長ったらしいので原文は割愛しますが、紙の横幅が実に3メートルにもなったと言いますから、息子たちもいささかうんざりしたことでしょう。

「三矢の教え」はフィクションだった?戦国大名・毛利元就が息子たちに遺した教訓とは


父・元就からの長すぎる書状にうんざりする隆元(イメージ)。

「まぁた親爺が愚痴をこぼしているよ……」

その内容をかいつまんで(それでも長いのですが)紹介すると、ざっくりこんな感じです。

==

隆元、元春、隆景へ、これを進ぜ候。右馬(右馬頭)元就より。

尚々(なおなお。追伸)、言い忘れていたことを繰り返すが、この手紙には誤字脱字などあろうが、文脈で意図を酌みとるのじゃぞ。


一、これまで何度も言っている通り、毛利の御家を末代まで廃らせぬよう、わしや先祖代々の精神を受け継いでいってほしい。

一、元春と隆景は、それぞれ他家を相続したが、あくまでも毛利家を支える使命を忘れるでないぞ。

一、何度強調してもし足りないのは、もしお前たち三兄弟が仲違いするようであれば、三人そろって共倒れは免れぬぞ。これまで毛利家は多くの大名らを滅ぼして怨みを買っており、三人の誰も洩れぬよう力を合わせねば、とうてい立ちいかぬぞ。

一、隆元は、元春と隆景の補佐を得て政治をおこなうように。また元春と隆景も毛利家を第一に考えて補佐するように。毛利家が弱体化すれば、家臣たちが心変わりせぬとも限らぬ。

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毛利家臣団の一人・桂能登守元澄。Wikipediaより。

一、この前も申したが、隆元は長男だから、弟たちが不満を言っても、父のような度量で受け止めねばならぬ。逆に元春と隆景は他家を継いだのだから、福原や桂など他の家臣たちと同じく(兄ではなく、主君とけじめをつけて)隆元に従わねばならぬぞ。まぁ、内心不満なのは解らんでもないがの。


一、この教えをみんなが守れば、毛利・吉川・小早川の三家は末永く栄えるだろうが、先の事はわからん。ならば、せめてお前たちだけでも教えを守って欲しいところだが、さもなくばことごとく滅び去ることとなろう。

一、何はなくとも、亡き母・妙玖(元就の正室)や一族ご先祖様への供養をねんごろに致せよ。

一、五龍城主の宍戸(ししど)家へ嫁いでいった愛娘の五もじ(通称:五龍の方)が不憫でならぬ。お前たちもこれまで通り、あの娘を気にかけてやって欲しい。もしぞんざいにしたら、わしはそなたらを怨むぞよ。

※五もじ(五龍の方)についてはこちら。

ラスボス感ハンパない!色んな意味で強かった?毛利元就の愛娘・五龍姫の生涯

一、今、虫けらのように小さな息子たち(元就の四男以下)がいるが、もしまともな人材に成長したら、どこか遠いところでいいから領地を与えてやって欲しい。もしおバカ(原文:ひやうろく無力)であったら、好きにして構わぬ。何はともあれ、お前たち三兄弟と五龍だけは仲良しであって欲しい。さくなくば、最大級の親不孝と心得よ。

一、わしはこれまで、意外と多くの者を殺しており、そのことについて必ず因果応報を逃れまいと内心で後悔しておる。
じゃからお前たちも、無闇に人を殺すのは慎むのがよいぞ。この因果が、わしの生きている内に巡って清算できれば、お前たちに迷惑が及ばんのじゃが……。

一、わしは20歳の時に兄・毛利興元(おきもと)と死に別れてより、40数年もの間、波乱に満ちた歳月を送って来た。数々の戦さで多くの者が討死したが、わし一人すべり抜けるように生き残り、実に不思議に思っている。我が身を振り返ってみると、特に心がけが良かった訳でもなく、屈強な身体を持っていた訳でもなく、才覚にすぐれていたでもなく、また神仏のご加護をたまわるほどの正直者でもなく、これと言った取り柄もないのに、このようにすべり抜けられたのはどうしてなのか、自分でも推し量れない。今は早く心安らかな余生を送り、来世の幸せを祈りたいところだが、現状を顧みればそうもいかないのぅ……。

「三矢の教え」はフィクションだった?戦国大名・毛利元就が息子たちに遺した教訓とは


とにかく念仏を唱えることじゃ(イメージ)。

一、わしが11歳の時、家臣の井上河内守元兼(いのうえ かわちのかみ もとかね)のところへ旅の僧侶が念仏の講義に来たので、継母と一緒に教わったのじゃが、以来ずっと朝日を拝みながら念仏を唱える習慣を続けておる。念仏を唱えれば来世はもちろん、現世においても功徳があるらしいので、お前たちも毎朝怠らないように実践するとよかろう。まぁ、お日様もお月様もどっちを拝んでも(≒毎朝が面倒なら、毎晩でも)いいと思うが。

一、わしは不思議なくらい厳島神社を崇敬し、永年にわたり信仰してきた。かつて折敷畑(おしきばた)の合戦において、厳島神社からお下がりの米と必勝祈願の巻物を持って来てくれたので、そのご加護で勝利を収めることができた。
その後、厳島に要害を築こうと訪ねた折、思いがけず敵が来襲したのでこれを迎え撃ち、多くの首級を挙げたので、これを(軍神の血祭りとばかり)並べておいた。これは後に厳島で大勝利を収める吉兆であろうと安堵したものじゃ。そういうことであるからして、お前たちもよくよく厳島神社を崇敬するとよいぞ。

「三矢の教え」はフィクションだった?戦国大名・毛利元就が息子たちに遺した教訓とは


厳島神社のご加護で、末永く安泰(イメージ)。

一、つらつら申したく、せっかくだから今回申したが、すっかり気がすんで、もうこれ以上話すこともなくなった。これで本望、めでたいめでたい。とまぁ、恐れながら申し上げた次第じゃ。

11月25日 元就(花押)
隆元、元春、隆景へ、これを進ぜ候。

==

※以上、毛利元就「毛利家文書405号・毛利元就自筆書状」より意訳。元就も書いている通り、ニュアンスを酌みとってもらえればと思います。

■終わりに

……長い。長すぎです。
何なら「ダラダラ愚痴を話していたのをそのまま書き留めて推敲もせずそのまま渡した」勢いです。

とりあえず「兄弟三人力を合わせろ、妹(五龍の方)を大事にしてやれ、下の弟たちの処遇は(できれば厚遇してほしいけど)任せる、亡き母や先祖の供養を忘れるな、無闇やたらと人は殺すな、毎朝念仏を唱えろ、厳島神社を崇敬しろ」などと言いたいのであろうことは判りました。

この「兄弟三人力を合わせろ」の部分が、(虚実はともかく)末期の矢を束ねたエピソードと合わさって、「三矢の教え」となったのですね。

「三矢の教え」はフィクションだった?戦国大名・毛利元就が息子たちに遺した教訓とは


「あっ」……大事なのは、矢が折れたとか折れなかったとかよりも、いいからとにかく兄弟力を合わせることなのである(イメージ)。

元就としては、実際に矢を用いたかどうかより、兄弟3人が力を合わせて毛利両川(もうりりょうせん。毛利を吉「川」・小早「川」両家が支える)体制を盤石たらしめることを何より願っていたことでしょう。

※参考文献:
河合正治 編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年9月
川和二十六『戦国時代 100の大ウソ』鉄人文庫、2018年4月
東京大学史料編纂所「毛利家文書405号・毛利元就自筆書状」

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