そこで今回は、日本史における男色の歴史を振り返り、特徴などもあわせてご紹介したいと思います!
■日本で男性同士の性愛を表す言葉
まず、混乱を避けるために、言葉の整理をしておきたいと思います。日本史上で男性同士の性愛を表す言葉はいくつかありますが、まず「男色(だんしょく・なんしょく)」が一般的な表現となります。
そのうち、武士同士の男色を“若衆道(わかしゅどう)”の略で「衆道(しゅどう)」と呼びました。ちなみに、衆道は基本的に、大名と寵童、武士同士の義兄弟関係など、明確な上下関係があったものを指すといわれています。また、衆道は「若道」(じゃくどう・にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)などの別名もあります。
■男色の始まり
『日本書紀』に日本の最初の男色の記録がある、と伝えられていますが、男色が日本に広まったのは仏教が伝来した奈良・平安時代といわれています。男色は寺院で広まったといわれ、僧と稚児という関係でした。
奈良時代以降には男色はかなり仏教界に広まり、稚児の初夜の前に行われる「稚児灌頂(ちごかんじょう)」という儀式によって、僧侶たちが稚児と交わることを正当化させていたともいわれています。
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■男色が公家に広がった平安・鎌倉時代
かの有名な藤原道長の子ども、藤原頼長も、男色関係を彼の日記『台記』にて残しています。
彼の場合、僧と稚児に見られた年齢差があるものではなく、成人同士の関係だったといわれています。
■武士の男色が盛んになった室町・戦国時代
中世・室町時代になると、武士たちのあいだでも男色が広まりました。
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この時代特に有名な男色関係だったのが、室町幕府第3第将軍・足利義満と、能役者の世阿弥。
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■江戸時代、男色文化の全盛から目立たぬ存在へ
江戸時代前期においては、男色文化が全盛期を迎えたといわれています。徳川幕府の15人の将軍のうち、7人に衆道関係があったと伝えられています。
なかでも有名なのが、三代将軍徳川家光。彼は一説によると、若いときの苦い経験から、女性を受け付けなくなってしまた時期があり、それ以降少年たちに愛が向いていったそうです。そして、それを春日局が心配し、結果として大奥ができたともいわれています。
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井原西鶴の『好色一代男』など、町人文化の題材にも男色は取り上げられるなど、全盛を迎えることとなりますが、江戸時代中期・後期になると、次第に目立たぬ存在になっていきました。
いかがでしたか?
今回は、日本の男色文化の歴史的な変遷をたどってみました。僧や公家など、限られた人々から始まり、町人文化にまで浸透する過程がおわかりいただけたのではないでしょうか。
この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです!
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