しかし、美貌に反して性欲が異常に強かったことから『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)には、「貪婬絶倫」(ひどく色を好み、性欲が旺盛な人)との評価を受けています。
果たしてどれ程までお福は性欲が強かったのでしょうか。今回は性欲の強さを表すエピソードを踏まえつつ、お福についてご紹介します。
お福のイメージ
■尾張徳川家で絶大な発言権を持っていた
お福は寛文5年(1665)に生まれます。出自に関しては、尾張藩士・坂崎義高や商人、大工の子といわれており、はっきりしておりません。
徳川綱誠の側室になってからは、後の尾張徳川家4代目・徳川吉通(とくがわ-よしみち)を含んだ2男2女を産んだことから、家中では絶大な発言権を持ちました。
元禄12年(1699)に綱誠が病死すると、跡継ぎには吉通がなりました。お福は出家し本寿院と名乗り、吉通の母として藩の政治に介入し始めます。また、この時からお福の性欲は爆発し、男漁りに走りました。
■役者や商人、力士と関係をつくった
お福はお寺に宿泊や人形浄瑠璃の鑑賞といった理由で、町人や役者の選り好みをして気に入った者を呼び出しセックスしました。
また、お気に入りの力士も抱えていましたので、お福は体形や身分にかかわらず、自分の好みがいたら誘う性分だったことがわかります。

乱れるお福(イメージ)
■お抱えの医師まで手を出す始末
そのように誰彼構わず行為に及んだので、お福は妊娠することが多々ありました。その際は尾張徳川家に仕えた医師・山本道伝の世話になっていました。
しかし、お福はあろうことか道伝とも関係を構築。道伝は最初こそはお福との関係を持っていましたが、いつしか江戸への下向命令に従わなくなり、関係は自然消滅しました。
■幕府の目にとまった結果
お福の性に自由過ぎる行動は尾張徳川家の家臣だけでなく、江戸幕府からも目を付けられます。
そして、宝永2年(1706)に歌舞伎役者・生島新五郎の弟で歌舞伎役者の生島大吉との密会疑惑をかけられたことをきっかけに、江戸の四ツ谷屋敷に蟄居。芸人の出入りには厳しい審査が行われました。

お福はこのような場所にいたのだろうか
■気が狂うまでに男を求めた
お福は蟄居先で誰ともできない不満を解消するように、庭木を使い自慰行為を行いました。しかし、それも長くは続かず、ついには髪を乱しながら、木に登って奇声を発するまで精神状態がおかしくなっていました。
その後も蟄居を解かれることなく、元文2年(1739)に75歳で亡くなりました。
■最後に
多くの男性と関係を持ったお福には、人を好きになるストライクゾーンが広かったことがうかがえます。また、出家した年は35歳でした。しかし、それでも引く手あまたの男性と関係を持てたお福の美貌は、当時としては格別だったものだと考えられます。
参考:末國 善己『夜の日本史』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan