戦国大名・伊達政宗(だて まさむね)の言行を記録した『命期集(めいごしゅう)』という書物に、こんな記述があるそうです。

「男の命は脇差(わきざし)なり」

一口に男と言っても色々いますが、ここで想定されているのは武士のこと。
その命を象徴するのは、脇差に外ならない……なぜでしょうか。

脇差とはその名の通り、刀の脇に差す短刀で、日常使いや護身用(※)の刃物としてはもちろんのこと、戦場で組み伏せた敵の喉笛を掻き切り、あるいはいよいよ追い詰められた時に腹を切るなど、まさに肌身離さず活用するものでした。

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脇差の活用例(イメージ)

(※)訪問先などでは刀を預けますが、その時でも脇差だけは武士の嗜みとして携帯が許されます。

しかし、いつも使っていたら当然ボロボロになってきますが、だからこそ日ごろから丹念に手入れをして、その状態に武士としての心がけが現れたのでしょう。

後世「伊達者」「伊達男」の語源ともなった派手好きな政宗が愛したのは、煌びやかな拵えの太刀よりも、質実剛健を地で行く脇差。その人柄が垣間見えるようですね。

さて、そんな政宗が好んだ脇差の中でも、特に思い入れのあったのが太閤・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の形見である鎬藤四郎(しのぎ とうしろう)。

一体どんな脇差だったのか、今回はそれを紹介したいと思います。

■鎬藤四郎が伊達政宗に贈られるまで

鎬藤四郎は鎌倉時代中期、京都の刀工・粟田口吉光(あわたぐち よしみつ。通称:藤四郎)によって作られた業物で、室町幕府の管領・細川(ほそかわ)氏に代々伝わる家宝でした。

脇差は武士の命!戦国大名・伊達政宗が愛用した刀剣「鎬藤四郎」のエピソード


吉光の名物・厚藤四郎。Wikipediaより(撮影:Kakidai氏)

鎬(しのぎ)とはざっくり刀身の側面部分(※詳しくは割愛)を言い、現存していないためどんな形状だったのかは定かではありませんが、何かカッコいいデザインなど、インパクトの強い外観をしていたのでしょう。


それが戦国時代に織田信長(おだ のぶなが)へ献上され、重臣・佐久間信盛(さくま のぶもり)に下賜されたものの、職務怠慢により没収されてしまいます。

信長は取り戻した鎬藤四郎を三男・神戸信孝(かんべ のぶたか)に与えましたが、信孝は兄の織田信雄(のぶかつ。信長の次男)と争って敗れ、鎬藤四郎は信雄の手に渡りました。

信雄は入手した鎬藤四郎を親しくしていた徳川家康(とくがわ いえやす)に贈り、家康はまた北条氏直(ほうじょう うじなお)へ贈ったそうです。

北条氏の滅亡後に黒田官兵衛(くろだ かんべゑ。孝高)が氏直から買い取り、羽柴秀次(はしば ひでつぐ。秀吉の甥)に献上。やがて秀次が切腹を命じられた時、秀次の近臣である不破万作(ふわ ばんさく)が「かねて『腹を切るならこの藤四郎で』と思っていました」と言うので、どうせ死ぬのだからとこれを与えました。

これでようやく秀吉の手に渡った鎬藤四郎ですが、その持ち主の移り変わりをおさらいすると、

織田信長⇒佐久間信盛⇒神戸信孝⇒織田信雄⇒徳川家康⇒北条氏直⇒黒田官兵衛⇒羽柴秀次⇒不破万作⇒豊臣秀吉

となり、その秀吉が亡くなると、その形見として伊達政宗に贈られたのでした。

■これだけは譲れぬ!政宗の剣幕

さて、そんな経緯で政宗の所有するところとなった鎬藤四郎ですが、よほどお気に入りだったようで、終生愛蔵したそうです。

秀吉の死後、天下の形勢が徳川家に傾きつつあることをいち早く察知した政宗は、娘の五郎八(いろは)姫を家康の六男・松平忠輝(まつだいら ただてる)に嫁がせたり、徳川家の養女・振(ふり)姫を嫡男・伊達忠宗(ただむね)の嫁に迎えたりなど、両家の交流を深めていきます。

交流をより深めるため数々の贈り物もしましたが、ある時、徳川秀忠(ひでただ。
家康の後継者)が伊達家へ遊びに来ることになった際、何を献上するか下見に来た徳川家臣と相談することになりました。

「ふーむ」

脇差は武士の命!戦国大名・伊達政宗が愛用した刀剣「鎬藤四郎」のエピソード


政宗の刀剣コレクション(イメージ)

今回のお題?は刀だそうで、政宗は自分のコレクションを並べて検分させましたが、家臣らはなかなか「これがよかろう」と言いません。

「当家の銘刀は、ここに揃えた限りですべてにございまするが……」

痺れを切らした政宗が尋ねると、家臣の一人が意地悪く言いました。

「そう言えば、伊達殿は鎬藤四郎の脇差をご愛蔵とか……あれなら上様もお気に召されようかと……」

政宗が脇差を命とも重んじていることを百も承知で「徳川家に取り入りたくば……」と足元を見たのですが、その悪意を覚った政宗は激怒。

「あれは亡き太閤殿下が形見に下さった愛刀、容易く譲っては申し訳が立たぬ!もしこれでなくば受け取らぬと申すなら、こちらもくれてやらぬまでよ!」

権勢を恃みに他人をなぶり、その命まで差し出せと言わんばかりの態度に怒り心頭、政宗に気圧された家臣たちはそれ以上何も言わず、他の無難な刀を選んだということです。

■エピローグ・命の「使いどころ」

天下人に楯突いてまで守り抜いた「命」鎬藤四郎でしたが、政宗はその「使いどころ」を心得ていました。

脇差は武士の命!戦国大名・伊達政宗が愛用した刀剣「鎬藤四郎」のエピソード


土佐光貞筆・伊達政宗肖像

時は寛永13年(1636年)5月24日、70歳の生涯に幕を下ろそうとしていた政宗は、その枕元に嫡男・忠宗を呼んで遺言します。

「よいか。わしが死んだら、鎬藤四郎を上様に献上するのじゃ。それと引き換えに普請のお願いをすれば、きっと聞き入れられよう……」

(※もちろん他にも伝えていますが、ここでは割愛)

この普請のお願いとは本拠地の仙台城に二の丸を造営する件と言われており(諸説あり)、なかなか許可が下りなかったそうですが、鎬藤四郎と引き換えに認めてもらえと言っているのです。

「我が命(愛刀)に換えての願い、よもや聞かぬとは申すまいな?」

とまでは流石に思っていなかったでしょうけど、ともあれ普請の許しが出たと言いますから、なかなかの「使いどころ」だったと言えるでしょう。

脇差は武士の命!戦国大名・伊達政宗が愛用した刀剣「鎬藤四郎」のエピソード


明暦の大火。
田代幸春『江戸火事図巻』

その後、鎬藤四郎は徳川家に代々受け継がれていったものの、明暦の大火(明暦3・1657年3月2~4日)で焼失してしまいました。

人間、生まれた以上は必ず死ぬもの。だから命を惜しんでいても始まりませんが、さりとて一つしかない命のを使いどころを最大限に活かした政宗の器量を、私たちも見習いたいものです。

※参考文献:
三浦竜『日本史をつくった刀剣50』KAWADE夢文庫、2020年1月
歴史群像編集部『図解 日本刀事典 刀・拵から刀工・名刀まで刀剣用語徹底網羅!!』学研プラス、2006年12月

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