最盛期には200名以上の隊士を抱えた「新撰組(しんせんぐみ)」は、厳格な規則が存在し、隊の掟を破った者は容赦無く粛清された。新撰組の古参隊士であり、勘定方として隊の活動資金の管理を任されていた「河合耆三郎(かわいきさぶろう)」も、粛清の対象とされた一人である。


今回は、河合耆三郎の活動や死について、エピソードや考察を交えてご紹介する。

■新撰組とは

幕末の京都周辺における治安維持、尊王攘夷派志士の粛清を目的として結成された組織。幕臣で組織された幕府の正規組織ではなく、公募の浪士によって構成された非正規の団体であった。

前身は1862年の徳川12代将軍・徳川家茂の上洛に際して募集された浪士組。度重なる内部抗争を経て、63年に新撰組となる。

3度目の介錯でようやく絶命。新撰組の勘定方だった「河合耆三郎...の画像はこちら >>


新選組局長・近藤勇

その後は、組織内の中心派閥であった近藤勇(こんどういさみ)率いる試衛館派(江戸にあった道場の門下生を中心に結成された組織)が実権を掌握した。

■河合耆三郎

1838年、播磨国(現在の兵庫県)の米商人の家に生まれる。新撰組入隊の正確な日時は定かでない。新撰組の隊名を用いる以前、壬生浪士組時代の構成員名簿に勘定方として名前が確認できることから、1863年の9月以前には入隊していたことがわかる。

浪士としての活動 勘定方であった河合だが、新撰組の自警活動にも参加している。1864年に起こった池田屋事件(中央政界への影響力低下を危惧した長州藩を中心とした尊王攘夷派浪士たちと繋がる古高俊太郎を新撰組が捕縛。浪士たちが古高奪還を相談するために開いた会合現場を新撰組が襲った事件)では、副長である土方隊の構成員として参戦したとされる。


幕末のハイライト・池田屋事件!新選組が討幕派の志士たちを斬ったその真相とは

池田屋の会合を発見し最初に踏み込んだのは近藤隊であり、河合が組み込まれていた土方隊は後に合流している。河合が相対する浪士たちと刃を交えた記録はないが、現場に参加していた可能性は高いと考えられている。

【後編】では新撰組隊士として尽力した河合が切腹するに至った理由と顛末を探る。

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