後編では、吉田松陰やその他に粛清された普段あまり名前が表に出てこない志士達について紹介します。
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尊王攘夷運動が激しくなった幕末、粛清の対象となった「安政の大獄」の被害者たち【前編】
吉田松陰 吉田松陰は、幕末に活躍した多くの志士たちに多大な影響を与えた天才でした。私塾である松下村塾(しょうかそんじゅく)で久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)他多くの志士たちを指導しています。桂小五郎(かつらこごろう)も、門下生ではないものの教えを受けた一人です。
吉田松陰は、脱藩や藩籍剥奪なども意に返さないほど、自らの志を曲げない性格の持ち主で、獄につながれることもいとわないほどの強硬な尊王攘夷論者でした。幕府が締結した日米修好通商条約に怒りを覚え、老中首座・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画しましたが未遂に終わりました。
安政の大獄では、梅田雲浜などとの関わりの疑いで捕らえられます。詮議の結果、疑いが晴れたものの、志を貫き間部詮勝の暗殺計画を進んで自白して斬首となりました。あまりにも生き急いだ29歳の生涯でした。
■その他に粛清された人物 略歴
梅田雲浜や橋本左内、吉田松陰の他にも安政の大獄で粛清された人物達がいます。あまり名前は表に出てきませんが、安政の大獄の引き金と言われる飯泉喜内や水戸藩家老の安島帯刀など、略歴も含めて紹介します。
飯泉喜内(いいいずみきない) 始めは土浦藩藩士、後に上京して江戸時代後期の公卿三条実万(さんじょうさねつむ)の家士となります。
この押収された書類が安政の大獄のきっかけとも言われています。
頼三樹三郎(らい みきさぶろう)
幕末の儒学者で、20歳ごろから尊王攘夷の志を持つようになります。30歳で母が亡くなると、自重していた尊王攘夷運動に歯止めがかからなくなり、家族を捨ててのめり込みます。
3年後、将軍後継で朝廷に一橋慶喜擁立を働きかけ、強烈な幕政批判を行います。その後、安政の大獄で捕らえられ斬首されました。享年35歳。
安島帯刀(あじま たてわき)

Wikipedia 安島帯刀
水戸藩の家老で、一橋慶喜の将軍後継に奔走。個人として平岡円四郎(ひらかえんしろう)や梅田雲浜、橋本左内、鷹司家や三条家などと通じていて、幕府から危険視されていました。戊午の密勅(ぼごのみっちょく)関与の疑いで軟禁されます。
鵜飼吉左エ門(うがいきちざいもん) 水戸藩の京都留守居役。将軍後継問題で慶喜擁立を図り、水戸藩京都工作の中心となります。勤王の志士らと通じ尊王攘夷に奔走します。しかし、安政の大獄で捕らえられ、激しい拷問を受けます。拷問は、歩行できなくなるほどのものでした。その後、息子の幸吉らとともに斬首となります。享年62歳。
鵜飼幸吉(うがいこうきち) 水戸藩の京都留守居役助役。日米修好通商条約締結の阻止に奔走し、父鵜飼吉左衛門とともに将軍後継問題で、一橋慶喜擁立を図ります。
茅根伊予之介(ちのねいよのすけ) 水戸藩の郡奉行奥右筆頭取(ぐんぶぎょうおくゆうひつとうどり)。藩校・弘道館の開設にも尽力しました。藩主水戸斉昭とともに尊王活動を精力的に行い、日米修好通商条約の戊午の密勅や将軍後継問題に絡み不穏分子とみなされ、安島帯刀とともに出頭し斬首となりました。享年36歳
日下部伊三治(くさかべいそうじ)

他にも西園寺家家臣の藤井直弼(ふじいなおすけ)や清水寺成就院坊の近藤正慎(こんどうしょうしん)、月照(西郷隆盛らと親交のあった幕末の尊王攘夷派僧侶で最期は入水自殺)の弟の信海(しんかい)、与力の中井数馬(なかいかずま)らが尊王攘夷志士として安政の大獄で連座し、獄死しています。
■まとめ
今回は、前編・後編に渡って安政の大獄で粛清となった志士達を紹介しました。安政の大獄は、権力者が意見の異なるものに対して、粛清や謹慎、隠居、御役御免など厳しく弾圧した事件です。
志を貫いた結果の理不尽な安政の大獄での処罰は、後に続く多くの志士たちの討幕への機運をより一層奮い立たせました。
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