そんな国民的スポーツである大相撲…いつの時代も必ずライバル同士の名勝負が展開されます。
このような「熱い戦い」は、今から約200年以上も前の江戸でも、「二代目:谷風梶之助」と「小野川喜三郎」という二人の名力士によって繰り広げられていました。
大関谷風と金太郎の首引き Wikipediaより
■谷風梶之助(初土俵1769~引退1794)
仙台出身の谷風の生家は苗字帯刀を許された豪農の家で、7歳の頃には五斗俵を持ち上げてしまうほどの怪力の持ち主でした。その類まれなる潜在能力を生かして、明和5年(1768)18歳の時に力士となり、翌年には初土俵を踏んでいます。デビュー当時の四股名は「伊達関」…これは仙台藩主・伊達家から賜ったものですから、期待の大きさは並々ならぬものがあったことでしょう。
しかし、若手のホープとして、多くの人々の期待を背負った当時の谷風でしたが、藩主と同姓であることを憚って、すぐに「伊達関」の四股名を返上し「達ヶ関」と改名しています。
あくまでも想像の限りになりますが、まだ新人であった谷風にとって、藩主の姓で土俵に上がることに相当なプレッシャーがあったのではと感じます。現に、過度な期待を受けた若手のアスリートがその重圧から潰されてしまうということも少なくありません。
その後、達ヶ関としてキャリアを再スタートさせると、安永5年(1776)に「谷風」へ改名。そして、初土俵からおよそ10年で最高位の大関に昇進しました。
谷風の大きさは推定189cm162kgとされていますから、現代の日本人力士たちと並んでも遜色ないサイズです。プレイスタイルは体格を活かした相撲で連戦連勝を飾ります。
強豪力士として人気を得ると、「寛政三美人・難波屋おきた」とのツーショット浮世絵(作勝川春湖)や落語「佐野山」にも登場するなど、メディア露出も増えてくることになります。
…そして、本業の相撲では破竹の63連勝を飾り、当時の相撲界は、まさに「谷風時代」を迎えることになります。
■小野川喜三郎(初土俵1776~引退1797)

小野川喜三郎 Wikipediaより
谷風が圧倒的な実力でその地位を着実に固めていた頃、一人の小兵力士が初土俵を踏みました。小野川喜三郎は近江国の大津京出身。琵琶湖西側の要衝の地で付近には東海道が通り、陸海の交易が大変盛んだった場所です。
デビューは安永5年(1776)の大阪相撲。後に江戸相撲に進出すると、久留米藩有馬家のお抱えとなりました。
小野川のサイズは推定176cm116kgの小兵で、力の谷風に対しスピード感のある相撲を得意としていました。「野翁物語」にも「玄秘妙手ありて、少しのスキのあるときは、谷風と言えども勝つことあり」と評されている通り、典型的な技巧派タイプの力士だったようです。ちなみに、江戸相撲においては、技に秀でた小野川よりパワーのある谷風の方が人気が高かったとも言われます。
谷風が落語に登場したのに対し、小野川は「有馬の化け猫騒動」を題材にした「有馬怪猫譚」に登場し、劇中では妖怪退治で活躍しています。これは「三大化け猫騒動」と謳われるほど人気で、芝居や寄席でも取り上げられています。

蔵前神社
■横綱制度の始まり
さて、時は天明2年(1782)2月蔵前場所(大護院/現蔵前神社)7日目、連勝街道を走っていた谷風は小野川と対戦することになります。当時の格付けは、谷風が大関、一方の小野川は二段目…これは現在の十両に相当するので、実績では谷風が大きく小野川を上回っていました。しかし、この両者の勝負は、小野川が谷風を下し大金星を上げ、その連勝を「63」で止めることとなります。
この一戦について、当時の人気狂歌師であった蜀山人(太田南畝)は…
「谷風は まけたまけたと 小野川が かつをよりねの 高いとり沙汰」
と詠んでいます。この歌によって、谷風の連勝ストップのニュースは江戸中に広まるところとなり、新しいスター誕生に当時の人々は熱狂したことでしょう。
その後も二人は熱戦を展開し、寛政元年(1789)には揃って横綱免許を授与されました。これは長い相撲の歴史の中で、横綱制度の始まりとも言われます。
そして、寛政年間(1789~1801)の相撲の爛熟期に貢献した二人のハイライトは、寛政3年の11代将軍徳川家斉の将軍上覧相撲です。
当時の背景としては、松平定信が主導した「寛政の改革」により厳しい倹約政策がとられていました。改革の波は娯楽産業を制限させることとなり、庶民たちの不満が日増しに高まっていた頃、上覧相撲が計画されました。これは将軍が直々に上覧することによって、江戸相撲の地位を確たるものにし、改革で疲弊した人心を掴む目的があったとされています。
それほどまでに当時の江戸相撲は江戸庶民に大きく影響力を持っていたことを表しています。
結びの一番で組まれた谷風ー小野川戦の結果は、小野川が見合った際に「待った」をかけると、行事の吉田追風は谷風に軍配を上げています。戦うことなく谷風が勝利した理由について、「呼吸は合っていたにもかかわらず、これを嫌った小野川は気合で谷風に負けている」とし、戦前の期待に反し、何とも後味の悪い結果となってしまいます。記録にもこの対戦は小野川の「気負け」という結果として残りました。
後日談として、谷風ー小野川戦から約40年後、阿武松―稲妻の両横綱が上覧相撲で対戦した際に、阿武松が「待った」をかけたところ、勝負はそのまま続行され、家斉は待ったをかけた阿武松が何故「気負け」にならないのかと側用人に質したと言います。家斉にとって谷風と小野川の一番は、心の中に相当残っていたのでしょう。
上覧相撲のあと、二人は江戸相撲を支えますが、現役中だった谷風に不幸が襲います。寛政7年、当時、江戸で大流行していたインフルエンザに罹ってしまい、35連勝中の中にあった谷風は急死してしまいます。
谷風は生前に「土俵上でワシを倒すことはできない。倒すことできるのは風邪くらいだ」と豪語しており、奇しくもその通りになってしまいました。現役バリバリの最中、感染症で命を落としてしまった谷風の訃報は、江戸庶民の心をさぞかし悲しくさせたことでしょう…。
現在、コロナ禍にいる現代人にとっても、谷風の死は強く響くような気がします。
一方、小野川は数々の激戦によってフィジカル面でかなり疲弊していったのでしょうか…上覧相撲の後から欠場することが多くなり、寛政9年10月場所を最後に引退し、その9年後の文化3年(1806)江戸で没します。

二人の没後、阿武松緑之助までの約22年間、横綱が誕生することはありませんでした。長い相撲の歴史において、これだけの期間、横綱が存在しない状態は唯一の例で、いかに二人が心技体で優れていたことを表しています。
谷風と小野川…今から200年以上も前の相撲界を牽引した二人の力士の活躍は、その後の力士たちに大きく影響し、それは現代相撲にも引き継がれていることでしょう。
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