せっかく興味深い文化を持っているのにもったいない、といわゆる和人は江戸時代後期から明治時代にかけて蝦夷絵(えぞえ。夷画とも)と呼ばれる日本画を描きました。
小玉貞良(こだま ていりょう)の『古代蝦夷風俗之図(こだいえぞふうぞくのず)』や蠣崎波響(かきざき はきょう)の『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』など、多くの画匠がアイヌの暮らしぶりを活き活きと描き出しています。
小玉貞良『古代蝦夷風俗之図』
しかし、なぜアイヌたちには絵を描く習慣がなかったのでしょうか。その理由は、彼らが文字を書かなかった理由にも通じるのだそうですが……。
■絵や文字には悪霊が宿る?
アイヌたちは基本的にモノ(特に生き物)をかたちづくる行為を「神(創造者)の領分」と考えており、その資格を持たない人間が越権行為に及ぶと、つくられたモノには魂がこもらないばかりか、悪霊の依り代(あるいは悪霊そのもの)となって悪さをすると考えられたと言います。
言われてみれば、確かに不気味な絵画に心がゾワゾワさせられることもあれば、美しい絵画ならその美しさで心を奪われてしまうこともあり、それらがエスカレートすれば身体に不調を来してしまうこともあるため、アイヌたちはそれを悪霊のしわざと考えたのでしょう。
なので、アイヌ語では禁忌(タブー)とされる「絵」や「絵を描く行為」について直接的に表現する語彙がないと言うより封じられているそうで、いかに「それ」を恐れていたかがよく解ります。
それと同じく、アイヌたちは言葉を文字にして書き残すことで情報伝達や共有・記録など便利な側面があったことは知っていたでしょうが、それをあえて使わなかったのは、やはり悪霊を恐れての決断だったようです。

秦檍麿『蝦夷島奇観(模写:平沢屏山)』
古来、言霊(ことだま、ことたま)と言われるように、言葉にはある種の魔力があり、言葉によって励まされ、勇気づけられることがある一方で、言葉によって傷つけられ、時に死をも選んでしまうほど惑わされてしまう危険性もあります。
ただ口で言うだけなら、やがて記憶も薄らいでいくでしょうが、はっきりと文字に残され、それが半永久的に消えないとなれば、傷つけられた者の苦しみは想像を絶するもの。
また、言葉には嘘や誇張、虚飾が含まれることも少なからずあり、そうした魂のケガレを嫌ったことも、あえて文字を持たなかった一因でしょう。
そんな精神性がアイヌをして文字≒国家を持たせず、近代になって日本・ロシアそれぞれに吸収されていったのですが、弱肉強食の帝国主義世界にあっては、やむなき結果と言うよりありません。
■終わりに
さて、そんな経緯で生まれた蝦夷絵はアイヌ絵と呼ばれて現代にその風俗を伝えているものの、アイヌ文化への高い関心が人気を呼んだためか粗製乱造される傾向にあり、その市場は玉石混交。
先に挙げた小玉貞良や蠣崎波響など、実際に蝦夷地に住んでアイヌたちの暮らしぶりを間近に見てしっかりと描いた画匠がいる一方で、蝦夷地に行ったことさえないような者が「アイヌっぽい絵」で荒稼ぎするような例もあったと言います。

蠣崎波響『夷酋列像』より、クナシリ惣乙名のツキノエ(貲吉諾)
「やれやれ、これだから和人(シャモ)は……」
アイヌたちのあきれ顔が目に浮かぶようですが、現代でもそんな「アイヌっぽさ」を観光資源など地域活性化の起爆剤にしているところもあり、どうか大らかな心で見逃してやってはいただけないでしょうか。
※参考文献:
須藤隆他 編『古代の日本9 新版 東北・北海道』角川書店、1992年7月
新明英仁 『「アイヌ風俗画」の研究-近世北海道におけるアイヌと美術』 中西出版、2011年2月
国際浮世絵学会 編『浮世絵大事典』東京堂出版、2008年6月
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