今回のこの記事では、そんな山県昌景(やまがた まさかげ)についてご紹介します!
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戦国最強の騎馬隊。
■山県昌景(やまがた まさかげ)とは?
山県昌景は、1529年(1530年という説もあり)に、甲斐(現在の山梨)に生まれました。主君は武田信玄と武田勝頼。『甲陽軍鑑』によると、昌景ははじめは武田信玄の近習として仕えたのち、続いて使番となりました。
武田信玄
信濃侵攻における伊奈攻めが彼の初陣で、神之峰城攻めでは一番乗りの功を上げました。そして、信玄の側近であり、家臣のなかでも若いものたちで構成された「御使番衆12人」にも選ばれます。
1552年には騎馬150持の侍大将に任命されました。そして、彼は武装を赤色で統一した『赤備え』を率いました。
赤備えの軍隊は、井伊直政や真田幸村なども挙げられますが、昌景はその元祖とも言えます(実は、もともとは昌景の兄・飯富虎昌(おぶとらまさ)が率いていた)。
■体格は?
そんな最強武将の一人ともいえる山県昌景(やまがた まさかげ)ですが、意外にも体格は小柄だったようです。現在と当時では平均身長が違うこともありますが、彼は身長が130cm~140cmくらい、体重も軽かったようです。
当時の成人男性の平均身長が約160cmと言われていますから、それと比べてもやはり小柄ですね。
■かっこいい逸話やエピソード
山県昌景は、様々な戦で活躍しましたが、それに伴いたくさんの逸話やエピソードも持っています。

甲越勇将傳武田家廾四将:山縣三郎兵衛昌景(歌川国芳作)
例えば、信玄の異母弟である一条信龍が昌景に、どうして山県隊はそんなに強いのか?と聞いた際に、昌景は「訓練も重要ですが、それだけではなく、一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」と答えたと言います(翁物語より)。
数多くの武将がいた戦国時代でも群を抜いて強かった彼らしく、どんな戦であっても初陣のように慎重に作戦を練ることが大切なのですね。
以上です!いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本史や戦国時代、そして山県昌景という人物に興味を持つきっかけになれば嬉しいです!
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